2016年06月30日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」最終回 ともに瞑想を


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第24回目(最終回)の配信です。
最終回の今日は、著者 塩川香世さんとともに瞑想をしてみましょう。
途中、塩川さんが異語で語る部分がありますので、まずは、異語についての説明を聞いてみてください。


◇「著者と読むUTAブック」では、皆さんからのご感想をお待ちしております。
ご感想は、utabook250@gmail.com までお願い致します!
そして、いよいよ、7月からは「ありがとう」の朗読が始まりますので、お楽しみに。




posted by ユーティーエーブック at 05:13| 奈良 🌁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月29日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第23回 おわりに


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第23回目の配信です。
今回は「おわりに」、ページ数ではP164~P175までの部分です。


おわりに

さて、二〇〇七年、八月のver.01、二〇一一年七月のver.02に続き、このたび、本書、vre.03を発刊させていただくことになり、随所に手を加えさせていただきました。二〇〇七初版から、今年二〇一五年で、はやいもので、八年の年月を経過しています。
振り返りますと、約三十年前に田池留吉氏が中心となって、主として日本各地で開催されてきた二泊三日のセミナーは、「エルランティの光セミナー」、「UTA会セミナー」、「意識の流れ勉強会」、「UTA会」と名称を変えながら継続されてきました。私自身は、一九九三年四月より、セミナーに参加させていただき、田池留吉氏とともに学ばせていただくこと、二十年余りです。ともに学ばせていただいた友が全国各地にいます。そして、今年二〇一五年、私達は節目の年を迎えました。これまで、田池留吉氏とともに一堂に会し、学ぶという学びのスタイルは、一応二〇一四年一二月で終了し、新たに「UTAの輪セミナー」が、今年、二〇一五年三月よりスタートしたのです。もちろん、学びのスタイルは変わっても、田池留吉氏が指し示してくれた方向に心を向けて、ともに真実の世界を学んでいくということには、何ら変わりはありません。
このような経緯の中で、私は本書の改訂版を出版させていただくことになりました。

私達人間は、意識の転回をしていくために、生まれてくるんだと語ってきました。人生の最重要課題が、「意識の転回」という作業です。何のために生まれてくるのかと言えば、自分の本当の姿を知るためだということです。それが自分の中で現実のものとならなければ、私達は今までもそうでしたし、これからも永遠に真っ暗闇の中で彷徨い続けていかなければならないのです。
そこで、「21のまとめ」でも記したように、意識の転回を自分の中で遂行していくために、どうしても不可欠な作業は、「心を見る」という作業です。そして、意識の転回をしていくにあたり、もうひとつ重要な作業があります。それは瞑想です。しかも単なる瞑想ではなくて、「正しい瞑想」という作業です。正しい瞑想が自分の中で段々にできてくれば、意識の転回も捗ってくるということなんです。そして、意識の転回が捗ってくれば、さらに、正しい瞑想の完成度が上がってくるという、いわば、「意識の転回」と、「正しい瞑想」は真実の世界の扉を開きそして広げていく車の両輪と言ってもいいでしょう。
あなたも、真実への扉を開き、そして、車の両輪をスムーズに動かして、心地良い歩みをともに進めていきましょうというメッセージを、最後にお伝えします。
心地良い歩み、そう、それは、これから二百五十年、三百年にかけて計画されている次元移行という意識の流れの中の歩みです。
次元移行へ向かって、ともに歩みを進めてまいりましょうという意識の流れからの呼び掛けに、あなたも、そしてあなたもぜひ呼応していただきたいと思います。
ということで、正しい瞑想とはどのような瞑想なのかということに触れながら、本書を閉じていきたいと思います。

意識の転回が捗ってくれば、自然と瞑想をする時間が楽しくなってきます。本文でも、自分の中に上がってきた思いとともに、丹田呼吸の一つ、二つをして、お母さんと呼んでみる時間を持つことを実践してくださいと記しました。
実は、その瞑想の最後の最後は、田池留吉に心を向ける、合わせる、委ねる瞑想をする、そういう瞑想ができるようになりましょうということなんです。
言うまでもなく、田池留吉とは、これまでに約三十年の間、セミナーを開いてくれた田池留吉氏です。
ただし、ここで言う田池留吉とは、その田池留吉氏そのものではなくて、田池留吉氏が指し示す方向にある意識の世界のことを言います。
つまり、田池留吉氏が私に心を向けなさいというのは、あなたの心の中に厳然としてある本当のあなたに心を向けなさいということなんです。
さらに、田池留吉氏は伝えてくれました。
「本当のあなたは、愛です。本当のあなたは、愛のエネルギーを限りなく流し続ける存在なんです。あなたは愛です。そして、私も愛。私もあなたも意識、エネルギー、愛です。そしてひとつです。」
「田池留吉の世界は、喜び、温もり、広がりです。田池留吉の世界は、どなたの心の中にもあります。だから、それを知らずに、あるいは信じられずに、自分の外に安らぎや癒しを求めていくことは本当に愚かなことなんです。」

「自分の外に、安らぎを求め、癒しを求め、温もりを求めていく心を見てください。見ていきましょう。
安らぎを求め、癒しを求め、温もりを求めていく心とはどのような心でしょうか。寂しい心ではありませんか。満たされない心ではありませんか。
では、なぜ人間は、寂しい心を抱えているのでしょうか。満たされない心を抱えているのでしょうか。
そして、物に満たされも、金に満たされても、また人が大勢周りにいても、寂しい心、満たされない心が埋められないのはなぜなんでしょうか。
自分の中に、温もりがあり、喜びがあり、安らぎがあると本当に分かっているならば、そういうものを、自分の外に求めていくはずはありませんでした。しかし、人間は、いつの時代においても、外に、温もりや喜び、安らぎ、癒しを求め続けてきたんです。それは、本当の自分を忘れ去って、自分を肉だと思い、その形の世界にある自分しか見えていなかったからだと認めざるを得ないのではないでしょうか。
形を本物とする物の見方、考え方の中にいては、寂しい心からも、満たされない心からも、決して、自分を解き放つことはできません。それは、苦しいことではありませんか。そうです。その状態では、私は幸せだなんて心の底から言えるはずはないのです。
また、自分が本当の幸せだとか喜びが分かっていないのに、人を幸せにすることなど絶対にできません。従って、幸せにしてあげましょうという思いがどれほど傲慢な思いなのか、そして、幸せにしてくださいという思いがどれほど無知な思いなのかということです。」
「意識の転回」が自分の中で捗ってくれば、こういうことが手に取るように分かってくる、自分の心に伝わってくるのです。

そして、そのような状態になって、さらに、あなたの心で感じ分かってくることがあります。

それが、「次元移行へ向かって、ともに歩みを進めていきましょう」という意識の流れからの呼び掛けです。

「私達意識の流れが、地球上でこのメッセージを伝えていく時間は、あと三百年です。
その三百年の間に、たくさんの天変地異を、この地球という星は体験していきます。私達意識の流れは、地球上に転生してくる意識達に次元移行へのメッセージを伝えていきます。それが天変地異なんです。しかも、これから起こり来る天変地異の規模、エネルギーは、私達の想像をはるかに超えるものです。その巨大な天変地異のエネルギーを通して、次元移行を遂行していくメッセージを私達は流していきます。
私達は、愛のエネルギーです。私達は、エネルギーとして流れています。そして、私達、愛のエネルギーが、これからさらに仕事をしていきます。」

瞑想をする中で、この思いを私はしっかりと心に感じています。
肉、形を本物としている人達には、全く異次元のことだと思います。信じられないと思います。しかし、私の心の中には見えているんです。つまり、心に響いてくるんです。これから三百年の地球上での出来事を通して、私達がメッセージを送っていくことを、私は心で感じています。

また、私達は、「ともに歩みを進めていきましょう」「いつまでも、いつまでも待っています」というメッセージも流します。
しかし、それを欲でとらえると、そのメッセージの真の意味を、真っすぐに受け取れないことに注意してください。意識の転回が滞っていれば、優しさは厳しさを伴っていることが分かりません。
「次元移行へ向けてともに歩いていこう」「いつまでも待っていますよ」というメッセージは、自己確立、独立独歩の喜びを伝えています。そして、その喜びとは、1+2=3という意識の世界の喜びです。1+2≒3というのは、意識の世界の喜びではありません。
喜びから発せられたメッセージは、厳しさに裏打ちされたものなんです。どうぞ、メッセージを心で味わってください。
それぞれがそれぞれの心で、しっかりと自分の道を見定めるこれからの時間です。どのように存在していくのか、どのように生きて、どのように死んでいくのかは、それぞれにかかっています。
今、肉体を持っている間に、精一杯可能な限り、自分の心を見て、正しい瞑想をしていくことが、どれだけ自分に対する優しさであるのか、愛であるのか、心で感じていっていただきたいと思います。
生半可な学びではないことは、意識の世界を心で感じていけばいくほど、知っていくでしょう。
欲で繋がっている間は、ただ厳しい、本当に厳しいだけだと恐れをなすか、反発するか、その程度でしかありません。
しかし、真実の喜びと温もりを心で知り、本当の自分の声を、そして思いを聞いていったならば、その厳しさこそが、本当の愛、温もりであると心に伝わってきます。
確実に広がっていく世界があります。その世界に自分達があるのだと分かれば、だからこそ、今という時、今という時間、そして、これからの時間が、どれだけ幸せな時間であるか、厳しさとともに喜びが広がっていくのです。

これから、約三百年かけて、私達は、必ず証明してまいります。私の意識の世界は、その途上にあることを確信しています。それは、天の声、神の声、そのような、ちっぽけな世界ではないことを、今世、私は私に伝えました。まさに、真実の世界から伝えていただいたことを、私はただ真っすぐに、遂行していくだけです。
今世は、その手始めだと記しました。今世を境にして、意識の世界は、大きく変わっていきます。つまり、「意識の転回」を促す出来事が、どなたにもやってまいります。そして、その時、何を選び取っていくかは、それぞれの自由です。ただし、それは絶対的な自己責任を伴います。
その猶予期間は、これから約三百年です。その後、この地球が存続しているかどうか、それは定かではありません。
ただ、私は、再び、この地球上に転生してくることはないと、私自身に伝わってきます。その思いとともに、私は私の世界に帰っていくのだと、心で感じている今現在です。

「意識は永遠なり、私は喜びです。」
意識の転回を、どうぞ、始めてください。
そして、本当の自分との出会いのために、これからがあることを感じていってください。それは、喜びの道です。間違いなく喜びの道です。
どうぞ、どうぞ、ともにこの三次元を超えてまいりましょう。

posted by ユーティーエーブック at 09:54| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第22回 21.まとめ


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第22回目の配信です。
今回は「21.まとめ」、ページ数ではP153~P163までの部分です。


21 まとめ

さて、ここまで、「意識の転回とは何か」から始まって、「その作業は難しい」「なぜか」という説明を経て、しかしながら、「それをしなければ、本当のことが分からない」「それをするために、私達は、生まれて、そして、死んでいくという転生を繰り返してきた」といった事柄を、私自身の愚かさを交えながら、色々な角度から、語ってきました。
では、その難しい「意識の転回」は、どのようにすればできていくのかということが、皆さん、一番関心があることだと思います。
しかし、残念ながら、手っ取り早い方法もなければ、裏技もありません。あるのは、ただ一つ、「心を見る」作業を丹念に繰り返していくことです。
この作業がない人には、「意識の転回」はできません。
なぜならば、心を見ることを知らない人、見ようとしない人は、「形ある世界が本物で、それがすべて」だとする中で凝り固まっているからです。凝り固まっている以上、どうしようもありません。少なくとも、「心を見る」作業を真剣にやろうと思う人は、まだ今は、「形ある世界が本物で、それがすべて」だとする土台の上かもしれませんが、その土台が微かに揺らぎ始めているのだと思います。
そこで、「心を見る」作業というのを具体的に語ってみますと、自分を振り返って、反省すべきところは反省して、自分を正していくことが、「心を見る」作業ではありません。「心を見る」とは、その作業を通して、自分が瞬間的に出すエネルギーを感じていくことです。「私はエネルギーだ」ということを、実感していくことです。
まず、自分を産んでくれた母親に対して、どのような思いを広げてきたか、包み隠さずに、奇麗事に終わらないように、自分の思いをできる限り、出してみることから始めなければなりません。出してみるといっても、むやみやたらと外に向けて出しても、無用なトラブルの元です。
つまり、自分の不平、不満、その他諸々の思いを、例えば、目の前にいる母親に向けて直接に吐き出せば、まだ、その段階では、必ずトラブルが起こってきます。
互いに、「心を見る」作業をやっていこうとするならば、その中では理解されるかもしれませんが、それ以外では難しいです。無用なトラブルの収拾に時間とエネルギーを割くのは、得策ではありません。
とりあえずは、ノートに思いを書いてみる、書きなぐることを、やってみましょう。満点の母親など存在しません。みんな愚かなんです。そして、その愚かな母親の言動を見て、聞いて、みんな自分の思いがストレートに出てくるはずなのです。そして、実際にやってみれば分かると思いますが、母親に使ってきた思いは、自分の周りの人達みんなに使ってきた思いなのです。だから、まず母親の反省です。セミナーに集われた人達は、このことを繰り返しやってこられました。
具体的には、母親が自分にしてくれたこと、してくれなかったこと、逆に自分が母親にしてあげたこと、この三点に絞って、その都度母親との関わり合いの中で、自分はいったい、その時、どのような思いを母親にぶつけていったのか、包み隠さずに確認してください。
それと並行して、それぞれの宗教遍歴を振り返ります。例えば、今世は、宗教遍歴という大げさなものはない人であっても、誰でも、墓参りの一回や二回は、したことがあるでしょう。お正月に神社参拝の経験はどうですか。お墓の前で、または家の仏壇の前で、そしてお賽銭を入れて、手を合わせて、どのような思いを出してこられましたか。あるいは、人によっては、太陽を見て拝み、そしてまた、夜空に輝く星に願いをかけてこられたかもしれません。
とにかく、祈ってきたことや、願いをかけてきたことや、パワーを求めてきたことがなかったか、占いや呪いに興じてこなかったか、それらを思い出します。そして、なぜ、そういうことをしてきたのかと、自分に聞けば、必ず、何らかの理由が返ってくると思います。
「助けてほしかった」「救ってほしかった」「不思議な世界を知りたかった」「パワーがほしい。自分の思い通りになるパワーがほしい」等々というところだと思います。そうなれば、幸せになれると思うからこそ、自分の肉体を運び、時には、半端ではないお金を出してきたのです。そのあたりの自分の心の中を、じっくりと見ていけば、どれだけ欲の皮が突っ張った自分であったのか、必ず自分で分かってくると思います。
何はともあれ、まず実践することです。
どんな時も、自分から出てくる思いを、自分の中で確認して、そして、ふっと丹田呼吸の一つ、二つをして、目を閉じて、今、確認した思いに心を向けながら、「お母さん」と心の中で呼んでみてください。
「どうなる、ああなる、何を感じるか」は、ひとまず横に置いておいて、ただ、その作業を淡々と繰り返していくことが、極意と言えば極意であり、第一段階でしょう。
母親に使った心と、他力信仰に使った心を、丹念に、そして、ありのままに、自分の中で確認していくことをしていったときに、やがて、ふと、「何で自分は生まれてきたのか」「自分とは一体何だろうか」「本当にこれでいいのか」と、改めて、そういうような様々な思いが、心にどんどん過ぎります。それは今まで、何度も思い返してきたことかもしれませんが、ある時ふっと、そして、強烈に自分に響いてくるのです。
チャンス到来とばかりに、自分の存在そのものが全く間違っていたことを、否が応でも知っていく現象が起こってきます。文中にも記しましたように、それは、おそらく「人の生き死に」に関わってくる現象だと思います。そのチャンスをうまく活かすことができれば、それが第二段階となってくるでしょう。
本当に「心を見る」作業を、真剣にやってきた人は、そのあたりから、徐々に変わってくる兆しが見え出すのではないでしょうか。ほんの僅かかもしれませんが、それでも、その兆しが見え始めたというのは、自分の歴史の中で、大きな出来事です。
私自身も、拙著『ありがとう』の中で記しましたように、「人の生き死に」によって、大きく方向転換を、自分自身に促しました。自分の計画だったと言えばそれまでですが、「形ある世界が本物で、それがすべてだ」とする思いの向きを変えるには、やはり、この現象をおいて他にないと、私は思っています。
真実は、自ずと自分の中から伝わってきます。自分の中には、間違いなく「本物の自分」、すなわち「真実」が存在するからです。
そして、その「本物の自分」が「偽物の自分」を導いていることに、心から気付くには、もう天変地異という手段しか残されていないことを、私は感じています。
日々、安穏と暮らしている中では、「天変地異という手段しか残されていない」という言葉は、少々厳しくて乱暴な表現かもしれません。なかなか、現実のものとして受け止めることは難しいですが、意識の世界では、もうそのような流れになっています。いつまでも、形の世界を握っているわけにはいかないのです。形ある世界は、色々なところからどんどんその形を崩していきます。「とらわれている心を見てください」というメッセージを流しながら、喜びで崩れていくのです。
しかし、このことをいくら公言しても、今はまだ、殆どの人には理解できないことです。今の生活、今の家族、今の自分、それらをしっかりと握っている状態の中では、無理というものです。
そうです。今の状態では無理です。だからこそ、これからの時間の中で、様々な事柄が、しかも、予期もしない事柄、想像を絶する事柄が起こってくるのでしょう。天変地異の嵐は、みんなに公平に平等に配分されていくことでしょう。
しかも、これから起こってくる天変地異には、「形ある世界が本物で、それがすべて」だとする思いを、一気に崩していくほどの巨大なエネルギーを蓄えています。もう意識の世界は、そういう段階にきています。
それを、今現在どれだけの人が、心で感じておられるか分かりません。
しかし、止めることができない、変えることもできない意識の流れの中で、真実を知っていくシナリオがそれぞれにきちんと用意されています。
それを運命とか、宿命とかで片付けてしまっている場合もありますが、そもそも運命とかそういったものは存在しないと思います。すべてが自分で計画、予定してきた事柄です。決して偶然はありません。
また、運命に翻弄されたという表現は正しくはないと思います。翻弄されているのではなく、自分で翻弄しているのです。「真実に目覚めなさい」と、自分が自分に言っているのです。
それが分からずに、私達は運命のせいにしてきたのではないでしょうか。言うなれば責任転嫁です。そもそも、運命は誰が決めるのでしょうか。私達は、「運を天に任せる」と言います。また、「運命を切り開いて、困難を克服して、ようやくつかんだ栄光の道」というのもあります。
片や任せる、片や切り開く、何かどこかおかしいと思いませんか。矛盾していませんか。
そうです。実は、私達は今、何もかもおかしい状態の中にあるんです。
おかしい状態だから、おかしい結果が、あちらこちらから噴き出してきます。それがこれからの時間に、特に顕著になってくるということです。「根本が違っています。真実に目覚めなさい」という呼びかけが、声高らかになってくるということだと思います。
「真実は一つ」、その呼び声高らかに、ともに歩んでいこうとする意識の流れからのメッセージが、それぞれの心に響いていく日を、心待ちにしています。
毎日の生活の中に、しっかりと腰を下して根を張るのではなく、ただ、自分の意識の世界をしっかりと見るために、今、それぞれの環境の中に肉体を携えていることを、知らなければなりません。
「なぜ、生まれてきたのか」「何をするために、この世に出てきたのか」、その答えが自分の中で、はっきりとしてくるにつれて、自分が今、携わっている仕事、自分の家族、自分の健康のこと、その他自分の周りの事柄に対しての自分の思いが、変わっていくでしょう。自分とそれらのものとの関わり具合に、変化が出てくると思います。そうした時に、さらに、自分とはいかなる存在であるのか、もう一歩突っ込んで自分に問いかけてください。あなたの中は知っています。あなたの中の愛が答えてきます。波動で答えてきます。それはただただ喜びです。喜んで、喜んでいこうという思いが、はっきりと、自分の心で感じられる時が、やってくるでしょう。それを素直に真っ直ぐに受け止めて、自分の中からの促しに沿って存在していってください。

posted by ユーティーエーブック at 08:04| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月27日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第21回 20.平々凡々ながら、我が道を行きます


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第21回目の配信です。
今回は「20.平々凡々ながら、我が道を行きます」、ページ数ではP145~P152までの部分です。


20 平々凡々ながら、我が道を行きます

私は、口八丁、手八丁の類の人間ではありません。
優しい言葉をかけ、優しい態度を示し、互いに頑張っていこうと声を掛け合う人は、とっつきやすいかもしれません。私は、どうもそういうことは苦手だから、とっつきにくいみたいです。以前から、「あんたの考えていることが、私にはあまり分からない」と、母親に言われてきました。
私は、面倒見はよくないし、逆に人から口を挟まれることも、あまり好みません。生真面目でもなく、几帳面でもありません。邪魔くさがりで、面倒なことは嫌いです。多分に自己中心的なところがあります。
また、私は、どちらかと言えば、一匹狼に近いと自分自身を評価しています。それだけに、一つ間違うと、地獄の奥底に転落です。あまり人の言うことを聞かないからです。自分で納得しない限り、聞いているようで聞いていない、調子を合わせているようで、そうでない、そのようなところがあります。
しかし、それが、案外、学びを遂行していくという点において、プラスに作用したと思っています。
一見、短所なところも長所に作用していったのは、やはり、自分の中に、真実に出会いたいという純粋な熱い思いがあったからだと、私自身は思っています。
「この世のどこかに、真実はある、必ずある。」
何の取りえもない私ですが、この思いを心に感じてきたというのが、ただ一点のいいところであり、すごいところと言ってもいいかもしれません。
その実現を見ることがないということは、あり得なかったと確信している今、その思いだけが、平々凡々な私を導いてきたことを感じます。
また、その思いがあったからこそ、多分に自己中心的な私であっても、何とか曲がりなりに、そして、大きなトラブルを起こすことなく、社会生活に馴染んできたのだと思います。
いいえ、それどころか、ただ我が道を行くことを許されていることを痛感して、これほど幸せなことはないと、私は常々感じているところです。
社会のため、会社のため、家族のため、そんな大そうな心意気など、何もない私ですが、自分の痕跡をしっかりと見つめ、自分のこれからを、しっかりと見つめていこうとすることに、エネルギーを注いでいることだけは確かです。
また、私は、怖がりで臆病だけど、考え方はしっかりしています。自分の理念というか哲学を持っています。だから、あまり人に、世間に、なびいていかないのでしょう。
もともと、私には、自分で選び、自分で遂行していこうという思いがありました。それによって、自分に降りかかってくるものは、自分で対処していかなければならない、結局は、何事も自分のことは、自分以外に解決はできない、自分が納得しない限りダメだ、転生を重ねた結果、そのような思いを強くしていったのだと思います。
自分の理念、哲学が、今世ようやくにして、自分の中で納得できるものと出会えたということで、私自身、大変喜んでいます。
今世、私達に本当のことを伝えてくれたのは、田池留吉氏という人でした。田池留吉という一人の人間を通して、真実の世界に触れさせていただいて、本当に感謝しかありません。この出会いがなければ、私達には本当に明るい未来なとなかったと言えるでしょう。
私は、田池留吉氏の伝えてくれたことを、心で理解していると思っています。意識の世界の私達はひとつであることを、具体的に感じている、つまり、確信していることは事実です。
それは、決して曖昧模糊なものではなく、「私達はひとつ」だという私の感覚は、まさに明確なものであり、現実的なものです。
だから、二五○年後の出会いは必ずあり、しかも、その出会いがあって、すべては、そこから始まっていくことも、私は知っています。今世の出会いも、非常に大きな喜びですが、来世の出会いは、それにも増して、いいえ、比べることができないほどの大きな喜びであることも、もちろん感じています。
そのような背景を抱えて、私は、田池留吉氏と接しています。私は、田池留吉氏を師と仰ぎ、鏡として自分の中に掲げる思いで、見ているのではありません。そのような低次元で、田池留吉氏を見るということは、本当におこがましい限りだと思っています。私にとって、田池留吉という存在は、その程度に留まるものではないからです。
出会いは非常な喜びでした。千載一遇の出会いでした。ずっと探し続けてきたものを、田池留吉氏は、単刀直入に端的に表現してくださいました。私の意識の世界に多大な衝撃を与えていただいたのも、事実です。
そのことにより、私は、自分自身に目覚めさせていただきました。そして、今、自己確立の道を、淡々と歩んでいる幸せと喜びの中にあることを、確認しています。平々凡々ながら、今、その道を一歩一歩、歩む喜びに、私の中は湧き返っていると思います。
確かに続いていくこれからの時間の中で、それは、さらにより鮮明に、自分の中で感じていくことができるだろうと確信しています。
だから、私は、これから二百五十年、三百年に至る時間が待ち遠しいです。
どんどん自分の中と出会っていって、そして、どんどん自分の中の愛に目覚めていき、私達は愛の中にひとつという思い、エネルギーを流し続けていける存在なんだと伝えていけばいいからです。
たくさんの意識達が呼応してくるこれからの時間に思いを馳せ、私は私の信じる我が道を行きますと明言できる今を、ただ喜んでいます。



posted by ユーティーエーブック at 09:00| 奈良 ☀| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月24日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第20回 19.意識を転回すれば、もちろん、人間としても成長します


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第20回目の配信です。
今回は「19.意識を転回すれば、もちろん、人間としても成長します」、ページ数ではP141~P144までの部分です。


19 意識を転回すれば、もちろん、人間としても成長します

意識の転回をすれば、何が分かるのか、意識の転回をし始めてこそ、本当の喜びと幸せが分かります。
その過程では、ただただ真っ黒な自分だけが飛び出てきます。その作業が進むにつれて、真っ黒な自分がたまらなく嬉しい、愛しいということに尽きるのです。
自分は素晴らしい、私は正しい、間違っていない、悪いのはあいつだ、こいつだ、世の中だと思っている自分の心を見てみれば、すべてを八つ裂きにしているエネルギーの塊であることを感じていくでしょう。八つ裂きという表現は不適切かもしれませんが、とにかくそれほどすごい、凄まじいエネルギーなんです。
正しい、間違っていない、私は偉い。あなたは、このエネルギーで日々生きていませんか。あなたの心を見てください。あなたは、本当に正しくて間違っていなくて、偉いのでしょうか。これからは、その答えとなるものが、どんどん自分に訴えてきて、自分を変える方向に行かざるを得ない状態になっていくのだと思います。
形の上で、色々なことが起こってくるから、人は何かを考え、何かを思い、そして、自分の来し方、行く末を思います。それが、本来の人間の姿だと思います。それで、根本的な間違いに気付くことは難しいかもしれないけれども、少なくとも、愚かな自分を感じる時が、必ずやってくると思います。人智が及ばない大きな流れを、それぞれの心が感じていったときに、人は必ず変わっていきます。私は、そのことが信じられるのです。
自分とは何かを心で段々に知っていき、そして、こうして今あることが幸せだったと心から思えるから、一人の人間としては、まだまだお粗末で、課題もたくさんありますが、お粗末ながらも、以前と比べれば、肉も成長をしていると、思っています。
誠を尽くしたい。母親に、そう思います。単に世間で言う親孝行ではありません。真実に触れた意識としての喜びを、形に表していこう、いきたいとする思いになっています。そしてそれが、母親に対して誠を尽くしたいという思いに繋がっていくように思います。
母は、私に肉体をくれました。この世に産み落としてくれました。母は、愚かかもしれません。いいえ、愚かでしょう。
それは、私も同様です。しかし、私には、私を産んでくださったという事実だけがあります。
その事実の重みを感じながら、日々の生活を続けていくことが、私をさらに成長させるものだと、私は思っています。
「母と生活をともにしながら、その中で、自分の心を見つめていく。そして、意識の転回をさらに進めていく」、このような計らいを自分のために用意して、そして、本当に自分自身が知りたかった世界と、さらに繋がっていくことができる喜びを広げ深めていけることを、私は喜んでいます。
どんなこともみんな、自分の意識を転回させることに活用していくように、自らがいざなっているんだと思います。
目標は、「意識の転回」です。私達すべての意識は、愛の中にあったことを、現象を通して知っていくように仕組まれています。

posted by ユーティーエーブック at 09:07| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月23日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第19回 18.時が来たれば


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第19回目の配信です。
今回は「18.時が来たれば」、ページ数ではP137~P139までの部分です。


18 時が来たれば

時が来たれば、予定通り、筋書き通りに反応して、事は遂行されていきます。意識の流れとはそういうものです。その流れに逆流する流れは、形の世界を本物とする流れです。そして、その流れは、いつまでも逆流はできせん。では、どうなっていくのかと言えば、意識の流れに乗ることはできないんだから、沈み込んでいくだけです。淀んでいきます。再び浮上することは、さあ、どうでしょうか。
と言って、その淀み沈み込んでしまった世界が、どこか違う世界にいくのではありません。初めからひとつの世界があっただけです。形の世界を本物とするところからは、こちらの世界が分からないだけ、ともにあることが分からないだけです。
形の世界を本物とする思いは、自らがその間違いに気付き、その思いを、意識の世界を本物とする思いに転回する必要があります。
「形を通して、自らの苦しみ、間違いを見る、感じる。そして、そこから、自分を解き放していく」、そういうことをしていくのが人生でした。
そうしていけば、生きていく意味も何もかも全く違っていた自分に、全くトンチンカンな方向で、幸せと喜びと安楽を得ようとしていた自分に、気付くはずです。
気付けば、ただ嬉しくなってくるのです。もともと喜びしかなかったからです。喜びが、尽きることなく溢れてくることを感じます。
意識の流れは、淡々と流れていきます。悠然と流れていきます。すべてをその中に受け入れて、流れていきます。流れにそぐわないものは、自然淘汰されていくのです。
形の世界を本物とする思いは、沈み込んでいき、浮上することは難しいという表現は、頭でとらえれば、理解できないことかもしれませんが、これからの時間の中で、それは必ず証明されていきます。

posted by ユーティーエーブック at 11:01| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月22日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第18回 17.私と私の約束


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第18回目の配信です。
今回は「17.私と私の約束」、ページ数ではP131~P136までの部分です。


17 私と私の約束

心の中にある闇の暗い部分は、もう一度、生まれてくることにより、動きが活発化してきますが、その成長は、もうありません。肥大することはなく、終息の時期に入っています。
それが、私の来世、二五○年後の環境だと思います。
来世は今世よりもさらにもっと最短距離で、真実を自分の中で広げていくだろうと思います。今世の予習を踏まえているからです。今世の学習があるから、自分の中に、一直線で核心に迫ることができるのだと思います。
私は、今世も、自分の予定通りに、ほぼ最短距離で学んでまいりました。
今、自分を振り返るにあたり、私の環境が、真実を追究していくのに、申し分のないものだったことを実感しています。
その中のひとつに、私が学びに集ったタイミングというものがあります。これは、私にとっては、非常に大きなポイントでした。早くもなし遅くもなし、丁度いい時期に学ばせていただいたことに感謝です。
それから、自分なりに試行錯誤しながら学んできた結果、自己確立の道を確かなものとして、今は、その自己確立の障害となるべきものは何もない環境を設定しています。
ゆっくりと、ゆったりと、二五○年後に思いを馳せながら、楽しみながら、喜びながら、我が行く末を見つめていく時間、空間に恵まれています。
これほどの幸せはないと思います。
己というものを顕示していくことは、私には過去のものになりました。いつまでもそうしていては、到底真実の世界を知っていくことなどできないことを、感じているからです。
私には、そのようなことで道草を食っている時間はないことを感じます。
ひたすら、自分の中で対話を続け、そして、より純粋な世界を自分の中で広げていくことが、私と私の約束です。
もう、自分を裏切ることはしません。大いなる優しさ、温もり、広がり、そのような自分であったことを知ったからです。
私は、流れています。絶えず、新鮮な空気を送り込んでくれる自分を感じ、本当にこの私とともに存在していく喜びを実感しています。
私が感じている世界からすれば、形の世界の様々なことが、本当に芥子粒のように感じます。だから、その中にありながら、芥子粒には左右されません。いずれ消え去るものであり、永遠のものではないものに、もう二度と自分を売ることはしません。そして、芥子粒の中だと知っているから、どんなにすごい思いを確認しても、私はびくともしないのでしょう。揺れながら、振動を吸収しながら、よかった、嬉しい、ありがとうと、芥子粒を包んであげる私が、最終的にあります。
しかし、肉では、私は駆け引きもしているようだし、損得も考えているようです。一応、そうですが、やはり、それもまたどこかで、パッと立ち消えになっていくように思います。そのように肉の私はまだまだ愚かですが、今はその愚かな私がとても愛しく思えます。
私は、一生懸命生きようと、もがいてきた愚かさを、充分に味わってまいりました。もう私は充分です。もがけばもがくほどに、欲すれば欲するほどに、底なし沼に沈んでいくことを過去の私から学ばせていただきました。
「底なし沼の恐怖や苦痛は、どれもこれも自分をそこから解き放すためにあった。」
「自分を苦しめているのは底なし沼ではなかった。」
「自ら進んで底なし沼にはまっていったことが苦しみだった、それが私の転生に他ならない。」
そういったことを、私の心の世界は、きちんと、とらえていると思います。
形の世界は、区別差別の世界です。知力、財力の違い、生まれ育ちの違い、容姿の美醜、それらがあるから、心の中の汚いドロドロした思いを、まざまざと見ることができます。そういうふうに、物事をとらえる目を養っていく術を、今世の私は会得したのだと思います。
もちろん、二五○年後に生まれてくれば、私は、区別差別の人間社会で、ある時期は苦しみます。その苦しみの種は、まだ私の中にあるからです。しかし、それが肥大化することは、もうないと私は語りました。間違った方向で物事をとらえる目は、ある瞬間に変化します。その体験を経て、私は、ただ一直線に進んでいきます。それが、意識の転回がなせる業なのだと、私自身感じています。
今世の学習の時間を自分に用意して、そして、二百五十年後に、本番を迎えるという計画。
この計画は、決して狂うことがあってはならないのです。それは意識の流れの計画だと私自身は感じています。だから、肉から意識への転回が、何よりも、何よりも重要視されるべき作業でした。私は、私と交わした約束をきちんと遂行させるべく存在しています。意識の流れに思いを馳せながら、愛へ帰る道を進んでいこう、私と私の固い、固い約束でした。


posted by ユーティーエーブック at 17:22| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月21日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第17回 16.苦しんできた自分のために、どれだけ時間を尽くしてきたか


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第17回目の配信です。
今回は「16.苦しんできた自分のために、どれだけ時間を尽くしてきたか」、ページ数ではP125~P130までの部分です。


16 苦しんできた自分のために、どれだけ力を尽くしてきたか

「苦しんできた自分のために、どれだけ力を尽くしてきたか」と尋ねられれば、あなたはどんな返答ができますか。
そして、「あなたが力を尽くし、エネルギーを注いできたのは、全部偽物の自分のためではないのですか」と言われたならば、どうでしょうか。様々な思いが伝わってきます。
「苦しんできた自分とは、何か。偽物の自分だと言われても、どこがどう偽物なのだ、私には分からない。」とか、あるいはこうです。
「あなたの言うことは私には理解できない。それは、私だけではないはずだ。私の周りの誰に聞いても、こんなこと、理解できるはずがない。」等々。
また、事件、事故などをテレビなどで見聞きしていると、同様に、実に様々な思いが伝わってきます。
「確かに、金だけで幸せになれるはずがないが、しかし、金がなければ、一日だって生きてはいけないではないか。」
「病弱な身体で、一体何ができるのか。」
「知能に障害があったり、常軌を逸した精神状態だったりでは、まともな社会生活を送れるはずがない。お気の毒だが、それも運命と諦めてもらうより仕方がない。私は、お陰さまで、五体満足の身体に恵まれた。とにかく、一生懸命、自分が正しいと思っていることをやるまでだ。」
「私の人生だ。だから、勝手気ままに生きてやる。誰にも何も言わせはしない。」
例えば、このような言い分、思い方には、極端な部分があるかもしれませんが、しかし、口にこそ出して言わないだけで、ある程度頷けるという部分はあると思います。ただ、問題なのは、このような様々な暗い思いが心から出ていても、殆どの人達はそれについて無頓着だということです。だから、自分が苦しんでいるということが分からないのです。
ところで、「9自分に聞いてください」というところで、「自分のために生きる」ということについて、少し触れさせていただきました。ここで、もう一度、「自分のために生きる」さらに、「自分のために自分の持てるものを使っていく」ということについて、語ってみたいと思います。
実は、私の中には、そのような思いが、学びに集う以前よりありました。
「自分が自分に与えた人生は、自分が納得するように生きていきたい」という思いを、何かあるたびに感じてきました。そして、そう思うのはなぜなのか、それはただ単に自分のエゴなのかと考えてきましたが、今は、私の中の切なる思いだったと確信しています。
それは、私の中で、「意識の転回」が起こってきたからです。
土台が変わらなければ、いくら自分のために生きていきたいと思ってみても、それはエゴの中のことに過ぎないでしょう。ただ、手前味噌かもしれませんが、自分のために生きていきたいという思いは、私の中で、ほぼ純粋だったと思っています。その純粋な思いが、今の私を導いてきたと、私は解釈しています。
私は、絶えず、いつも何かを探していました。自分に納得する何かを探していました。この世の常識にとらわれることなく、私が私にしてやりたいことを探し続けてきたから、よかったと振り返っています。
そうかと言って、私は何も特異な生活をしてきたのではありません。ごく普通に日々を過ごしてきました。しかし、今思えば、私の幸せや喜びの基準は、どこか、社会の常識では説明できないところにあるということだったように思います。これまでに、社会の中で、家族の中で、それらを追求していく限界を、私は感じてきたのです。
そこで感じる幸せや喜びには限界があると思ってきました。行き止まりを感じてきました。どうしても、何かが欠けていると感じてしまうのです。しかし、では、どうすればよかったのか、何が欠けていて、では何があればいいのか、ということは、なかなか分かりませんでした。
言うまでもなく、人と人との繋がりの中で、生活は成り立っています。人は、ひとりでは生きていけないということでしょう。しかし、それは、私からすれば、あくまでも表向きの考え方に過ぎないのです。私の本音は、人はひとりだと思っています。そして、それは決して孤独な世界ではないことも段々に分かってきました。人はひとりという本当の意味、そして、喜びが分かってきたのです。
本当の自分の世界を追求していきたい、していこうという思いが、私の中に根強く根深くありました。その思いこそが、自分に納得する生き方であり、自分の中に欠けているものを埋めていくものであり、私が私にしてやりたいことだったんです。学びに集わせていただき、ようやく、その思いが表面に顔を出し、その姿を克明に現してきて、愚かな肉にも感じられるようになった今という時なんです。
「形の世界に、私の求めているものはない」、私の中で、この思いが確立していると言っても、言い過ぎではないと思います。

posted by ユーティーエーブック at 09:17| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月20日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第16回 15.あなたが欲しいものは何ですか


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第16回目の配信です。
今回は「15.あなたが欲しいものは何ですか」、ページ数ではP121~P124までの部分です。


15 あなたが欲しいものは何ですか

私自身が求めてきた幸せも喜びも、みんな間違っていたことは、今は、はっきりしています。やはり、そうでした。みんな間違ってきたというところからスタートすれば、何もかも自分の中で符合してくるのです。しかし、前にも述べたように、形ある世界が本物だとする土台の上に立っていれば、そのスタートの位置自体が分かりません。自分が求めてきたものはみんな、間違っていたことが、なかなか分からないというか、認めることはできないのです。認めることができなければ、学びのスタートは切れません。
しかし、大概の人は、自分自身は、とっくにスタートをしたと思っています。もう今は、随分遠いところまでやってきただろう、これだけ一生懸命学んできたのだから、どれだけ成長したのかと振り返ったとき、まだ全くスタートしていなかったことを知って愕然とする時があるかもしれません。そして、その時はもう遅かりし、人生の終焉の時かもしれません。
一生懸命やってきたはずだったのに、実際は、足踏み状態、または、前進するどころか後退している状態である、ということを心で知れば、「私は、自分を足踏みさせるもの、後退させるものばかりを握りながら学んできた。ああ、このまま死んでいくのは、あまりにも悲しく空しい」と感じずにはいられないでしょう。しかし、思いようによっては、そう確認できれば、まだいいほうかもしれません。人生も終わりに近づいたといっても、現にまだ、肉を持つ時間があるんです。それは、自分と向き合っていける時間がまだ残されているということだから、一念発起してやっていき、自分の本来向くべき方向に、数ミリでも心の針を向けることができたならば、万々歳の人生ではないでしょうか。
どんなに華やかで煌びやかな輝きを発した人生であっても、所詮、その輝きは、すぐにくすんでしまうことを、心で知ることなしに逝ってしまうことほど、悲しくて空しいものはないと思います。
ところで、あなたが欲しいもの、本当に望んできたものは何ですかと、自分に真っ直ぐに問いかけてください。さらに、あなたが欲してきたものを、今、あなた自身、その手の中に収めることができていますかと、問いかけてみてください。
私が、欲しかったものは、「この世のどこかに必ずある本当のこととは、いったい何なのか」ということに対する回答でした。そして、その回答に出会ったというのが私の答えです。それは、もちろん、完結する世界のことではないのですが、私は、私が探し求めてきたものに出会いました。本当のことに出会いました。
学びの中において、田池留吉の世界、アルバートの世界、母なる宇宙と、呼称は色々ですが、たった一つの真実の世界があった、これだけが唯一の現実であり、本当のことでした。
たまらない空しさと寂しさの中に落ちてきた私だけど、私は、今、意識の流れがあること、真実の世界に存在している自分であることが確信できたから、やはり、私は幸せ者だということになると思います。

posted by ユーティーエーブック at 10:05| 奈良 🌁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月17日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第15回 14.握っているものを離すことが人生でした


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第15回目の配信です。
今回は「14.握っているものを離すことが人生でした」、ページ数ではP115~P119までの部分です。


14 握っているものを離すことが人生でした

意識の転回が進んでくると、それが自分の中で始まらない限り、どんなに時間をかけ、労力をかけ、頑張ってみても、真実に辿り着くことができないことが、はっきりと分かってきます。
そして、意識の転回が進んでくると、時間をかけ、積み重ねてきた形を本物とする世界は、一瞬にして消え去っていく陽炎に過ぎなかったことも、はっきりと心に感じます。
それらを心ではっきりと知るから、自分の中から、一つ、一つ、握っているものを離すことをやっていこうとするのでしょう。
「幸せや喜びは、しっかりと握っていなければ、私の中から消え去っていく。」
「私を幸せに喜びに導いてくれるから、絶対この手を離すものか。」
「離させようとするものを、徹底的に排除していく。」
「この手の中に確実に入れるものが多ければ多いほど、幸せ感も厚くなるし、喜びも大きくなる。」
大真面目にそう思っていました。大きな思い違いをやってきました。もちろん、そこで、手にしようとするものは、楽しいこと、綺麗なこと、嬉しいこと、輝いているものばかりです。汚くて、暗くて、無様なものは、なるべく自分から遠ざけようとしてきましたから、その心の状態は、本当にお粗末なものだったと、今なら分かります。そのような心の状態で、人生を頑張って生きても、幸せになるはずがなかったのです。しかし、それはなかなか分かりませんでした。
今は、心がつかんでいるもの、握っているもの、それが少なければ少ないほど、そして、緩ければ緩いほど、本物が見えてくることを知りました。
本物が見えてきたならば、握ってきた自分、つかんできた自分が愚かだった、それだけでした。
そして、自分が愚かだったと気付けば、本物は、握ろう、つかもうとしなくても、すでに、そこに最初からあったことに気付きます。
偽物を離せば、本物が自然に見えてくるのです。そして、偽物(形の世界)も、きちんと整っているのです。整えようとしなくても、自分にとって必要ならば、整ってきます。
また、本当の自分の世界を感じていけば、きちんと整えられた形の世界でさえも、自分にとって必要がない時がくれば、そこから心を離していくことができるのだと思います。
形が崩れたから、仕方なく心を残して離すのではなくて、形が整えられていても、すっと心は離すことができる。それは、本物を感じてこそできるのだと思います。形は形にしか過ぎないことを、はっきりと心で知るからでしょう。
本来、正しい軌道にある人は、日日の生活をしながら、つかんだ手を緩める、離すことを学んでいきます。つかまえることが苦しい、間違っていることを学んでいきます。つかんだ手を緩める、そして離すことが、自分を本来の自分にいざなっていくんだと確信していきます。
そして、自分の世界と向き合うことができるということが、どれだけの幸せであり、喜びである今なのかを感じていけば、ずっと長く抱えてきたお粗末な心の状態も、また、よかったなあとなってくるでしょう。
いいえ、お粗末な自分だったからこそ、本当の幸せや喜びを感じてくれば、すごい世界に自分はいることを、しみじみ知っていくと思います。だから、お粗末な自分に、ありがとうしかないことが、実感できるのです。お粗末な自分を決して疎ましく思いません。愚かな自分だったからこそ、本当の幸せ、本当の喜びの世界を知ることができたとなるからです。

posted by ユーティーエーブック at 09:08| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月16日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第14回 13.母を通して


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第14回目の配信です。
今回は「13.母を通して」、ページ数ではP105~P113までの部分です。


13 母を通して

さて、私という事例を挙げて話を進めることにしていますので、まず、私は、母を語ってみることにします。
私は母が苦手でした。苦手と言っても、私を産んでくれた母親を単に嫌ってきたということとは、少し違います。
母は、世間の常識からすれば、まず合格点の母親だと思います。決して、不良な母親ではありません。私には、母を嫌う理由がありませんでした。母から、特に不都合なことを受けた覚えはありません。例えば、家族を顧みないで自分勝手な行動をする、いわゆる自己中心的な母親のとばっちりを受けてきたとか、今よくある虐待を受けたとかは一切なかったし、特に教育ママでも放任主義でもなかったので、母親に対して、特に何か不平不満があったわけでもありませんでした。
しかし、私は、母が苦手でした。母の目が苦手だった、母の目を嫌ってきたと言ったほうが、正解かもしれません。
母が苦手だったというのは、母親が特別に何かを言ったから、特別に何かをしたからというのではなく、あくまでも私の側の問題なんだということは、薄々感じてきました。
私は、自分と母との間に、部厚い壁があるのを、ずっと感じていたのです。いつも私は、「母は、目で私を支配している」と思ってきました。そして、その目と出会うたびに、「私は、あんたとは違う」と、私の心は返していたのです。その心はとても冷たく、聳え立ちの心でした。私は、母の領域に組み込まれることを極端に嫌い、避けてきました。特にどうとかいう母親ではないのに、なぜ、このような思いになるのかが、私には全く分かりませんでした。これが学びに集う前の私の思いでした。
そして、時を経て、母が苦手だった私が、「母親に使ってきた思いを見なさい、母親を思ってごらん」という学びの門を叩くようになりました。いいえ、叩かざるを得ない状況に、自らを追い込んでいったのです。そして、学びの門を叩き、自分なりに学ばせていただく中において、自分の中の態勢が整えられていたことを、私自身の心で知るようになりました。
それは、母が苦手だった私が、その母と向き合って、自分を見させてもらおう、私を産んでくれた母を丸ごと、そして、それは同時に私自身の愚かな部分を、みんな自分の心で全面的に受け入れていこう、ようやく、そのように思える私になっていこうとしていたということでした。叩かざるを得ない状況に、自らを追い込んでいったということは、そういうことだったんだと納得でした。
だから、学びの過程において、母に向けて、そして、周りの人達に向けて、自分の出す思いがどれだけ凄まじかったかということを確認できても、私は、それで落ち込むということは、ただの一度もありませんでした。落ち込むどころか、さもありなんと、心に上がってくるものは、納得と喜びだけでした。凄まじい思いと出会うことが、喜びであり、そのために、今という時間を用意してきたことを、はっきりと知るようになったからです。
私を産んでくれた母親に対しては、思いがストレートに出ます。母親の反省の初期段階で、ノートに書きなぐった思いは、どれもこれもみんな自分を中心に据えての思いばかりでした。母親は、何々してくれて当たり前の人でした。だから、してくれたことよりも、してくれなかったことに対しての思いだけが、膨大に膨らんでいきました。それは、まさに、私が、他力の神々に対して使ってきた思いと、何ら変わるところはないと実感してきました。
ノートに書きなぐった思いは、やがて、自分の肉体を通して、エネルギーとして表現されていきました。
口から出る言葉は、「死ね、死ね」の連続で、どこまで、この「死ね」が続いていくのかと思うほどでした。
私は、母を通して、自分の中に溜め込んできたエネルギーを、セミナー会場で存分に出させていただきました。感じさせていただいたのです。これほど幸せなことはなかったです。それで確認できたことは、私を産んでくれた今世の母親は、私自身が心に溜め込んできたこととは、何の関係もなかったということでした。母親という人は、私自身が心にずっと溜め込んできたブラックのエネルギーを出す引き金に、ただなってくれているんだと思いました。
「母が何かを言ったから、何かをしたからではなかった。」
「母に思いをぶつけても仕方がなかった。」
「母の目が厳しいのではなくて、その目を見る私の思いが素直ではなかった。」
母を疎ましく思う自分が違っていたのでした。その自分が真っ黒だったのです。そして、その真っ黒な自分を知っていくために、親と子の縁を結ばせていただいた事実と、私を産んでくれた、私に肉という形をくれたという事実だけが、最終的に、大きく私の中に広がっていきました。さらに、自分のエネルギーを感じていけばいくほどに、それらの事実が、どうしようもなく、ありがたいものになっていきました。
母と子、私達の今世の繋がりは確かにそうです。母と私は血が繋がっています。血の繋がりよりも、もっと強い繋がりがあるのかどうなのか、定かではありません。
私が、ここで言いたいのは、繋がりが強いからどうということではなくて、本当に意識の世界の波動を感じてくれば、こうして、今、私達は肉体を持って繋がっているのだから、その繋がりの中で、人としてのやるべきことは、きちんとするという方向に、肉は自然になっていくということです。必ずそうなっていきます。
私は、ただ単なる親と子の扶養関係から、老いていく母親を看ていくのではありません。そんなことは、一人の人間としての最低のルールだと思っています。と同時に、やはり、真実の世界を心で知った喜びによって、自然に人は、そのようになっていくのだと思います。
ところで、昨今のニュースを見聞きしていて、私が一番やるせない思いを感じるのは、その最低のルールも守られないことです。なぜ、年端もいかない我が子を邪険にするのか、反対に、年齢を重ねて思慮分別もあるのに、なぜ、自分の年老いた親を邪険にするのか、その他、私には、理解に苦しむ部分が多々あります。もちろん、一方では、そのようなことは、今世だけの繋がりの親とか子とか、夫とか妻だけでなく、ずっと過去から引きずっているものがあって、様々な惨たらしい事件が起きているということは、百も承知しています。そういう繋がりの中から、その人達は、自分の心を見ていかなければならないということも、承知しています。
そして、そのような心の闇がボンボンと噴き出してくる時を迎えていることを、きちんと自分の中で把握できない限り、またもや、心の闇に振り回されて、人間関係のドロドロとした中に、ただ自分を沈めていくだけの結果となっていくことは、様々な事件を通して、はっきりと示されています。それは分かっていても、何で、我が子を虐待できるのか、殺すことができるのかと思ってしまいます。その他のこともそうです。何で、そんなことができるのかと、それらのニュースに接するたびに、何か悲しい気がします。
今は、自分のエゴと欲と無知で、我が子を虐待したり、殺す母親が続出する時代となり、また、自分を産んで育ててくれた親を、邪険にしたり、死に追いやっていく時代となってしまいました。親子だけではなくて、夫婦でも友達でも、気に入らなければ、簡単に殺します。社会は何も自分のことを分かってくれないと、自分の中のうっ憤を、面識のない人達に向けて簡単に吐き出していきます。危害を加えても、平然としています。
お金に狂い、欲にまみれた中で、そして、自己中心的な暴走エネルギーの犠牲となっていく命を思うとき、ここまで、人の心は失墜しているのかと感じざるを得ません。
もちろん、殺されたり邪険にされたりするには、されるだけの理由があります。加害者だけが責められるものではなく、そこには確かに因果関係があります。
しかし、今は、あまりにもその手口が残忍です。そういう意味で、心に巣食っている闇の深さを、感じています。まさに、もうどうにも止まらない勢いで、狂いに狂ったエネルギーの噴き出しが日常茶飯事に起こってくる時代にすでに突入しているということでしょう。
危険ドラッグの問題もそうです。そして、日本の国では、まだ無差別テロが身近に感じられないかもしれませんが、近い将来、その脅威は大いにあると思います。

posted by ユーティーエーブック at 09:25| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月15日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第13回 12.真の意味で、強い人間でないと、真実を追求していくことなどできません


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第13回目の配信です。
今回は「12.真の意味で、強い人間でないと、真実を追求していくことなどできません」、ページ数ではP99~P103までの部分です。

12 真の意味で、強い人間でないと、真実を追究していくことなどできません

強い人間というのは、自分の本質が何であるのか、そこのところから目を逸らさずに、信じて、信じて、信じ切っていこうとする思いが、心の中から、マグマのように湧き出てくるまで、自分と真向かいになれる人を言います。豪傑ということではありません。
一方、弱い人間というのは、単に気が弱いとか、気は弱いけれど優しいとか、そういうことではなくて、自分自身を信じ切ることができない人を指します。自分を自分で見限る冷酷さが、弱い人間には分からないのです。
弱い人間は、気が弱いから、ダメだ、ダメだと落ち込んでいくのではなくて、自分を信じ切る信が弱くて、自分に冷酷無慈悲だから、ダメだ、ダメだと、自ら地獄の中に落ちていくことを選ぶのです。
優しさは厳しさです。厳しさは愛です。自分に対する絶大なる信頼のもとに、自分の中の愛が育まれていくのだと思います。
自分に対する絶大なる信頼、その絆を深めていくことが、これからさらに望まれることだと、私は理解しています。
自分を見つめるために、生まれてきました。肉体を持つことは絶対に必要でした。自分を掲げるために、肉体を使うのではなくて、肉体は自分を見つめるためにありました。自分を見つめるために、肉体が必要だったことに気が付けば、自ずとそれから以後の自分の思いが変わってきます。限りある時間の中で、何を優先していくか自ずと決まってきます。
もちろん、肉体を維持するために、社会の色々なことに対応していかなければなりません。今は、そういう社会になっているからです。しかし、今、自分は何のために、こうして肉体を持っているのかということが、自分の中で分かってくれば、その自分にとって必要なものは、すべて、整えられている、整うようになっていることが、感じられます。手許にあるもので、自分を見つめていけるようになっていることを、しみじみと感じて、満たされていきます。心が満たされていき、安堵感が広がっていきます。足らないもの、ないものを欲しい欲しいと求める思いが、段々と薄れていけば、逆に、すでにこんなに満たされていることを感じ、幸せ感が膨らんでいくはずです。
形ある世界に生きていると思っている間は、ないもの、足らないものばかりに思いが向きます。ないものねだりです。また、あっても、あってもここでいいということはありません。不足の思いが募っていきます。
それは、苦しみでしかありません。
自分(意識)のために、今、肉という形を持っていることがはっきりと分かってくれば、自分(肉)が自分(意識)を学ぶために必要なもの、それは経済的なものを含めて、すでにもう整えられていると分かってきます。自分(意識)を学ぶために、手元不如意などという事態は起こってきません。もちろん、それは単に、経済的なことだけではなくて、すべてにおいてそうだと感じます。
必要なものは、自分の周りに配置していきます。自分を見つめるのに必要なものは、すべて揃えていくのだと思います。なぜならば、人は、自分(意識)のために、肉という形を持つからです。意識の流れの中にある自分を振り返れば、それは納得です。なぜ、こういうふうになっていくのだろうかと自問自答すれば、答えは簡単に出てきます。自分が全部計画してきたに過ぎないことが、分かります。
形を見れば、どんなに大変な状態であっても、「越えられないものはない」ということです。それが、実感してくれば、勇気百倍です。偽物の自分ではなくて、本物の自分を信じていこう、喜びとともに勇気が湧いて出てくると思います。
「これが、私が私に目覚めるのに必要なことだった。」
そのように本当に思えたならば、その人は、きっと幸せです。自分に自分がありがとうと言える、こんな幸せな時間は、今までに一度もなかったはずです。優しい自分と出会える幸せ、喜びです。それは、心の底からふつふつと湧いて出てきます。そして、時には、心の奥底から突き上がってくる嬉しさです。自分に真摯に素直に自分と向き合える人間になりましょう。真の意味で強い人間でないと、真実を追求していくことはできないと言いました。つまり、次元移行という意識の流れにしっかりと乗って、自分をさらに見つめていくことができるのは、真の意味で強い人間です。愛が自分の中にあったと心で知っていくことが、自分を強い人間に蘇らせていくのです。

posted by ユーティーエーブック at 10:07| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月14日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第12回 11.生き様に優劣は付けられない



「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第12回目の配信です。
今回は「11.生き様に優劣は付けられない」、ページ数ではP95~P98までの部分です。


11 生き様に優劣は付けられない

性格がひねくれているとか、いじけているとか、言うこととすることが全く合っていなくて、それなのにいつも偉そうにしている人達は確かにいます。この人、一体何を考えているのかと言いたくなるような、人物評価をすれば、間違いなく落第点が付くと思われるような人もいます。逆に、素直で明るく、誰からも好人物だと合格点をもらう人もいます。
人間的に合格点が付いたからいい、落第点だからあの人は、というのを、今、少し横に置いておいて、その人の土台というところに、ポイントを置けば、どちらも、真実から遠くに離れているという共通点があります。
形の世界が本物であるとする土台に立っていては、人物評価では合格点がもらえても、真実の世界では合格点はもらえないことになります。
ところで、人物評価云々もそうですが、何を思い、どう生きていくか、言ってみれば、その人の生き様についても、優劣は付けられないと思います。その人が、真実を知らなかったならば、その生き様に優劣など付けることはできません。それは、みんな愚かだったと、それで片が付くからです。
しかし、実際にはどうでしょうか。
あの人は立派、何とかの鏡と崇めたり、反対に、人間のクズ、社会の掃き溜めと切り捨てていったり、色々な間違いを、私達は犯してきたと思うのです。
本来は、お手本となるような人もいなければ、バカにして見下す相手もまた存在しないのです。みんな、一様にして、愚かな自分を抱えているから生まれてきたのだと、本当に自分の心で感じていったならば、あの人はどう、この人はどう、そして、私はどうだなんて、言っている場合ではないことが、分ってきます。
全部、それぞれがそれぞれに定めてきた予定のコースを辿っていると感じてくれば、しっかりと見ていくのは、自分の心だけです。そして、自分の土台を見つめて、その土台を変えていこう、ただその思いだけで、生活をしていけばいいのだと分かってきます。自分の土台は自分でしか変えられないことも分かってきます。
そう思える自分が幸せだとなってくるから、当然、その生き様は変わってきます。周りの影響はあまり受けないようになってきます。そして、今ある中で、自分を見つめていくことができる喜びが、その後の生き方に反映していくと思います。
生き様に優劣は付けられないというのは、形ある世界にのみ生きようとする生き方は、その人生が成功であれ失敗であれ、優劣が付けられないほど愚かだという意味です。
本当のことが見え出したら、どのように生きていけばいいのかは、簡単に分かってくるし、それに沿った生き様は、すべてにおいて「優」です。「劣」はありません。こちらは、そういう意味で、優劣は付けられないということです。

posted by ユーティーエーブック at 09:47| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月13日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第11回 10.自分とトコトン付き合ってください


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第11回目の配信です。
今回は「10.自分とトコトン付き合ってください」、ページ数ではP89~P93までの部分です。


10 自分とトコトン付き合ってください

「私とあなたは、深い縁で結ばれている。」
そうかもしれません。あるいは、それは、単なる思い込みかもしれません。しかし、本当は、そのようなことはどうでもいいことです。深い縁であるかないかなど分からなくても、例えば、今、自分の身近にいる人達を通して、私は何を知っていけばいいのか、何に気付いていけばいいのかを考えていくことが大事なことなんです。そして、そこには、本当の世界を知り、本当の自分と出会うチャンスがあるだけです。だから、ありがたい人達なのです。唯一、自分の世界を見ることができるチャンスを作ってくれている人達なのです。それを、互いに、夫婦や親子などの形の世界での繋がりとしてしか見ることができなくて、しかも、そのような繋がりから心を離すことができないのは、大変残念なことだと思います。
肉体を持って存在している時間は、いつも、自分(偽物の自分)の世界から、自分(本物の自分)自身を自由に解き放していくことができるか、できないかの、二つに一つを選んでいく時間でした。
どんな人生にも分かれ道、つまり、岐路があります。過去は、ずっと、その分かれ道において、後者をみんな選んできました。自由になりたいと願いながら、自分(本物の自分)を小さな枠の中に押し込めてばかりでした。つまり、自分を形あるものだと思い続けてきたのです。私は自由だ、心は自由だと叫んでみても、自由の意味を履き違えてきたのでしょう。
しっかりと自分を見つめていく目を持ちましょう。真実だけをどこまでも追究していく目は大変厳しいけれど、大変優しいのです。どの人の心の中にも、その目はあります。
その目を、真っすぐにとらえて、何をするために、この世に出てきたのか、自分の中をはっきりとさせることです。
仮に今、財を築いて名を残したい、自分の生きてきた足跡を残したい、それが自分の中から出てくる思いなら、私はそれもいいと思います。その思いにトコトン付き合ってください。自分の合点がいくまで、付き合っていけばいいのです。付き合っていって、本当に自分は愚かだったと心の底から気付いていけば、そこには、厳しくて優しい目があることに気付けます。
その目が、「真実の方向へ向きなさい」と伝えてくれていることに、心から気付けます。心から気付くということは、そのメッセージを素直に受け取っていくということです。
もし、私自身に、今もその思いがあるならば、私は、きっとその思いに従って、自分の持てるエネルギーをみんなつぎ込んでいくと思います。現に、私はそうしてきました。今世も途中までそうでしたし、もちろん過去においては、疑う余地はありません。自分の世界を築きたかったと、自分の幸せのために、自分の喜びのために、そして頂点を目指し、ずっと戦いのエネルギーの虜でした。
「行き着くところまで行かないと、絶対に分からない。」
「自分の心で分からなければ、どうすることもできない。」
それが実感としてあります。
そして、その一方で、地獄の底の底の奥底の、もっと奥底から、今世ようやく浮上してきて、今、自分を蘇らせるチャンスをいただいているんだという実感があるから、この二つの教訓をしっかりと活かして、真実の方向にただひたすら邁進です。

posted by ユーティーエーブック at 09:52| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月10日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第10回 9.自分に聞いてください


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第10回目の配信です。
今回は「9.自分に聞いてください」、ページ数ではP83~P88までの部分です。


9 自分に聞いてください

人は、みんな、何かを求めて生きています。
自分を打ち込めるもの、自分を託すことができるもの、自分を賭けることができるもの、自分を必要としてくれるもの、そういうものを知りたいとか、そういうものに出会いたいとか、その願望があるのではないでしょうか。それが具体的に何かは、今一つ分からずに、ずっと模索中の人も多いと思います。
それでは、何もかも忘れて、没頭できるもの、集中できるものに出会っている人達は、幸せだと思いますか。夢を追い求めていると語っている人達は、どうでしょうか。本当にその人達の人生、キラキラと輝いているのでしょうか。
また、家族のため、会社のため、社会のため、我が国のため、世界人類のためをスローガンに、自分の人生を描いていく人達もいます。ため、ため、ためと言って力を尽くすことが、本当に立派なことなのでしょうか。
それでは、同じためと言っても、自分のために生きようとする人はどうでしょうか。
普通、自分のために生きるというのは、とかく自己中心的なふうに考えられがちです。そうではなくて、ここで言う自分のために生きるというのは、自分の中に生き続けているたくさんの自分のために今を生きるということです。私は、このことが何よりも肝心なことであり、これが抜けている人生など腑抜けの人生だと、自分の中から伝わってきます。自分の中の苦しみに目をつぶり、目を逸らしていては、幸せな人生、キラキラと輝く人生、立派な人生とは決して言えないのです。そして、それが分からないから、人はいつまでもどこまでも彷徨っていくのだとも伝わってきます。
「いい加減に目を覚ましなさい」と、世の中の流れは、益々大きなうねりの濁流となって、警告を発してくるのです。とても信じられないことが、ある日突然起こっても、本当は何の不思議もないのです。みんな肝心なことを忘れ去ってしまって、狂っている状態なんだと自らに知らしめてくるんです。
私達は、過去から、何度も何度も、辛い苦しい目に遭ってきました。しかし、なぜ辛くて苦しい目に遭ってきたのか、全く分かりませんでした。そして、今世もまた、何とか幸せになろう、なりたい、今度こそはと生まれてきました。それは、ただ単に幸せになろう、なりたいというのではないのです。あなたは、その奥に秘めた悲しいまでに切ない思いを、どれだけ心で感じているでしょうか。
実は、今、悲しいことや、苦しいこと、辛いことがあるから、悲しい、苦しい、寂しい、辛いのではなくて、そのような思いは、自分の中に抱えきれないほど、すでにあったのです。今、降って湧いてきたものではなく、すでに自分が抱え持っていたものでした。
いいでしょうか。ここがポイントです。
悲しいとか苦しい、辛い、寂しいという思いは、人間だったら、そういう場面に遭遇したら、当然に出てくる思い、感情かもしれませんが、それで終わったら、今世も過去と同じです。世間一般はそうです。「心を見る」ことをしなければ、そうです。「それが人生なのだ」「だから人生なのよ」と歌の文句ではないけれど、みんなそう思って諦めてしまうのです。世間に流れていくのです。「時が解決するよ」と自分を納得させていくのです。
諦めたらダメです。変に納得しないでください。ここが踏ん張りどころなんです。
私達は、悲しくて辛くて苦しい暗い思いとともに生まれてきたのです。すでに、そのような暗い思いは自分達の中にあったものでした。それらの思いと、どのように向き合っていけばいいのか、それが人生の最大の課題なのです。
思いの重圧に押しつぶされたり、そこから逃避したりするだけでは、そして、ただ悲しい、苦しい、寂しい、辛い、と訴えるばかりでは、その人は、自分の人生を生きていることにはなりません。そういうことでは、本当の喜びであるとか、本当の幸せとはこういうものなのかを実感する人生に巡り合わないでしょう。
苦しくてもいい、辛くてもいい、寂しくても、砂を噛むような空しさに狂ってもいい。しかし、人生を投げ出したり、狂ったりしたままではいけないのです。そこから、何を知っていくかです。そこから、どのように自分を見つめていくかです。そのために、自分に用意してきた時間が肉体を持っている時間、つまり、今のあなたの人生です。
人生を生きるとは、自分を見つめていくことです。一生懸命、自分に報いてやれるエネルギーを、自分の中で掘り出していくことが、自分を幸せに喜びに、そして、安らぎに導いていくことだと、私は思います。
「自分を自分で導いていく、暗い自分から明るい自分へ導いていくことができるパワーが、自分の中にあるのではないか。そのパワーこそが、ずっと私が切望してきたパワーではなかったか。」
私は、そう自分に問いかけてきました。そして、それを、今、私達は愛と呼んでいます。私達の中にもともとあった愛のエネルギー、愛のパワーです。それを、苦しみながらも、悩みながらも、目覚めさせていくように、蘇らせていくように、自らをいざなっていると、自分の中で知っていけば、こんな喜びはないでしょう。こんなに幸せな時はないと、自分の中の愛が語ってくれるのです。

posted by ユーティーエーブック at 09:00| 奈良 ☀| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月09日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第9回 8.幸せを感じたいなら……


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第9回目の配信です。
今回は「8.幸せを感じたいなら……」、ページ数ではP77~P82までの部分です。


8 幸せを感じたいなら……

財力、権力、知力を手にしても、決して本当の世界とは巡り合えないことを、自ら気付いていかなければなりません。
それどころか、それらを手にすればするほど、全く逆方向に生きてしまう、本当の世界から遠ざかってしまうことにも、遅かれ早かれ気付いていかなければならないでしょう。
自らを地獄に突き落としてきた私達は、あまりにも愚かで悲しかったと、しみじみ思い及ぶことができたときに初めて、肉体という形を用意してきた私達ほど、幸せな存在はないと、つくづく思い知ることができるのだと思います。
それは、一見、矛盾しているようですが、分かってしまえば、理路整然としています。
幸せを求めて、生きる喜びを求めて、日々頑張っている私達が、なぜ自らを不幸にしてしまうのか、なぜ自ら破滅の道を選んでいくのか、誰にも解き明かせなかった疑問だったと思います。
「何が破滅なものか。私は、これだけ幸せだ。これだけのものを手に入れて、今、まさに、我が世の春を満喫している」。しかし、有体に言えば、自分自身を知らないままで、生まれて死んでいく人に、我が世の春はあり得ないことだと思います。
その人から流れ出るものを感じることができれば、それは歴然としています。
語る言葉ではなくて、その人から醸し出されるものです。それを波動と言いますが、その波動が、その人を一番適切に物語っているのです。
言葉や態度ではなくて、波動がその人を物語るというのは、私達人間は、意識、エネルギー、目に見えない存在だから、それは当たり前のことなんです。しかし、形の世界しか信じない人には、それは分かりづらいことです。言葉や態度ならば分かります。分かりやすいんです。だから、どうしてもそれらを重視します。そこにとらわれていきます。そしてその結果、騙した、騙された、裏切られた、裏切者と苦しみを膨らませていきます。
言葉や態度はいくらでも騙せるんです。誤魔化せます。二枚舌とか、玉虫色の表現とか言われるように、状況如何によって、言葉も態度も変化させていくことは、決して珍しいことではありません。しかし、波動の世界は違います。波動は騙せません。誤魔化せません。だから、物事を波動としてとらえていけば、おもしろいです。言うこととすることと、そして、腹の中で思っていることが合致していない場合があるのが分かるからです。
ところで、私達人間にはみんな、幸せになりたいという思いがあると思います。強弱は別として、幸せになりたいから祈ってきた、それは分かると思います。幸せになりたいと願いを込めてきた、これも分かると思います。そして、すべての頂点に立ちたかった、すべてを支配したかったから、闘い続けてきた、これはどうでしょうか。よく自分の心を見てください。自分の出す思いを振り返ってください。闘い続けてきた歴史が、自分の中に眠っていると感じませんか。
そして、私達は、その結果、今、どうなのでしょうか。
今、心の底から、幸せだと言える人が、どれくらいいるのでしょうか。何々があるから幸せだというのではなくて、何もなくても幸せだという心境とはどんな心境なのか、あなたは自分の心で分かっていますか。
そして、祈り続け、願いをかけて、戦い抜いてきたことが愚かであったことに、いったい、どれくらいの人が、自分の心で気付いているのでしょうか。
その気付きもないままに、だからこそ、私達人間は、今もなお祈り続け、願い続け、戦い続けている中にあるということだと思います。
本当の幸せを感じたいなら、祈りをやめることです。戦いをやめることです。しかし、やってみられたらお分かりになると思いますが、それは不可能なことです。
「祈り続けるエネルギー、そして、戦い続けるエネルギーを、私は、この心からどんどん垂れ流してきました。そして、このエネルギーこそ、自分を苦しみの奥底に突き落としていました。自分を自分で暗闇の底へ葬ったのです。いいえ、単に自分だけではなくて、私はこの真っ黒なヘドロのようなエネルギーを周囲に放射してきた愚か者でした。」
このように、本当に自分の心で気付くまで、祈りの波動は流れ、戦いの波動は心の中を覆い尽くしていくのです。

posted by ユーティーエーブック at 09:00| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月08日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第8回 7.自分にこよなく愛され、許されて、今がある


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第8回目の配信です。
今回は「7.自分にこよなく愛され、許されて、今がある」、ページ数ではP71~P76までの部分です。


7 自分にこよなく愛され、許されて、今がある

「自分にこよなく愛され、許されて、今がある」ということも、実は、形の世界を本物としていては、なかなか理解することはできません。
「自分に愛され、許されている」ということを忘れ去って、そして、知らずにきたのが私達人間だから、苦労して、頑張ってきた人ほど、自分(肉の自分)でやってきた、自分(肉の自分)の力でやってきた、生きてきた、頑張ってきたという思いは強いと思います。
中には、「私達は、愛され、許され、生かされているのですよ、感謝、感謝です」という人達もおられるようですが、そこから流れてくる波動は、多分に宗教臭いです。その人達も、まさか「自分に」愛されている、許されている、生かされているとは理解されていないと思います。自分を愛し、許し、生かすものが自分の中にあるなんて、思ってもいないでしょう。
結局は、感謝、感謝と言いながら、その人達もまた、自分(肉の自分)で生きてきた、自分(肉の自分)の力でやってきた、頑張ってきたと語る人達と変わらないのです。世間では、自力と他力という言葉で、区別しているようですが、その両者は、根っこが同じなのです。
「自分に愛されている、許されている、生かされている」というところの「自分」を知らない心、自分を愛し、許し、生かす「自分」を信じない心が、いわゆる他力の心です。その他力の心が根っこにあるという点で同じなんです。
人間は、目に見える自分(肉の自分)を自分だと思い込んでいるから、当然、その肉の自分のために、努力して、頑張っていきます。
そして、肉の自分が幸せだと感じることや思うこと、嬉しい楽しいと感じることや思うことが、それがそっくりそのまま自分の幸せと喜びに繋がっていくことを信じています。信じているというよりも、それしか知らないのです。肉の自分が今、心で感じている喜びとか、幸せとか、楽しさとかしか知らないのです。
では、他に喜びとか幸せとかがあるのかと言えば、あるのです。
それも肉の自分が今、心で感じているそれらとは、「月とすっぽん」の違いがあります。
それは、「本当の自分との出会い」がもたらす喜びと幸せです。
しかも、肉の自分が心に感じる喜びとか幸せは、そうそう長続きはしないけれど、こちらの喜びと幸せは、実に永遠に続いていくのです。
ただし、目に見える自分を自分だと思っていては、絶対に、本当の自分には出会えません。いいえ、出会えているんだけれど、出会えないように遮ってしまっているということでしょう。そして、そうしているのは、他ならない自分なんです。自分が邪魔をしているのです。目に見える世界しか信じようとしない思いが、本当の自分との出会いを遮り、邪魔をしているのです。
そこで、こう思いませんか。
「本当の自分と出会えない間は、偽りの自分しか知らないということか。それならば、その自分が味わっている喜びと幸せもまた偽りなのか。そして、それならば、本当の自分と出会って味わう喜びと幸せとは、一体どういうものだろうか。ぜひ味わってみたい。」
ということで、本当の自分との出会いを現実のものとしていくためには、その行く手を阻む偽りの自分を、まず、しっかりと認識していく必要があります。
その遮って邪魔をしている自分を知っていくために、「心を見る」という作業をしていきましょう。しかし、その作業は困難を極めます。形の世界を本物と思う土台を崩すことは難しいと痛切に感じていきます。しかし、投げ出さないでやっていきましょう。そうすれば、ようやく、どれだけ反省をしても、土台が切り替わらない限り、ダメだということが分かってきます。だから、やり続けていく以外にないと結論が出てきます。それ以外に、自分を知っていく手立てはないと分かってきます。自分を知らずして、本当のこと、本当の世界は見えてこないことが、それぞれの心で感じてくるのです。
だから、困難を極める作業であっても、遅々として進まない作業であっても、その中にこそ、真の喜びと幸せがあるんだという思いが、段々に確信となって、自分の心の中に響き伝わってくるんです。そうなってくれば、苦しみながらも、自分の中からふつふつと湧き起こってくるこれだ、これだという思いが現実のものとなっていく手ごたえが、さらに自分の背なかを押してくれます。つまり、自分を自分が引導していることを感じながら、次の一歩を踏み出そうとしていくのです。心を見て、そして正しい瞑想を重ねていく確かな喜びの人生が、自分の目の前に広がっていくでしょう。
それは、ひとえに、自分にこよなく愛され、許されて今があるという確かな証拠です。

posted by ユーティーエーブック at 09:37| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月05日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第7回 6.間違いだらけの人生



「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第7回目の配信です。
今回は「6.間違いだらけの人生」、ページ数ではP67~P70までの部分です。


6 間違いだらけの人生

「みんな、間違いだらけの人生を歩んできました。」
一言、このように発すれば、
「どこがどう間違っているのだ。」
瞬間的に反発する人達もあるでしょう。それはもう一瞬にして反発してきます。
「私は、それなりに生きてきた」、あるいは「正しく生きてきた」、もっと言う人は「立派に生きてきた」と、堂々と語るでしょう。そう思っている、また、そう語っている意識の世界が真っ黒なんだ、だから間違いだらけの人生なんだと言っても、学びのレベルが低ければ、そこのところが、ピシッと自分の中に響いてこないと思います。
「確かに、間違いは山ほどしてきた、間違いだらけの人生だった、こんな私がここまでよく生かされたものだ。」
口でそう語り、また、本当にそのように思っていたとしても、その人の土台が、形の世界が本物だとするところにあるならば、その土台の上で、ここは間違っていた、ここは正しかったと、判断しているに過ぎません。しかし、本来は、そんな判断などどうでもいいのです。土台自体が間違っているのだから、その上で、正しい、正しくないというのは、大きな意味をなさないです。しかし、肉が土台であれば、そういうところにこだわっていきます。そんなところに無駄な時間とエネルギーを傾けないで、さらりとかわすくらいでいいのではないでしょうかと言いたいです。それよりも、もっと、あなたの時間をかけ、エネルギーを注いでいかなければならないことがあると気付いてください。
また、こんなにバカな私だったという思いを込めて、よく、苦労話をする人達がおられるようですが、本当はご自分のこと、そんなにバカだとは思っていないと思います。第一、バカだという本当の意味が、その人達には分かっていないのではないでしょうか。だから、その人達からは、バカだ、愚かだと言いながら、むしろ、よくここまでやってくることができたものだと、己というものをグッと前に突き出している波動が流れているのです。土台が肉であれば、それは当たり前のことです。
間違いだらけの人生というのは、そういうことではないのです。
形の世界を本物だと思っているその思いが、間違っているということです。それは意識の世界から見れば、真っ暗な思いなんです。自分の本質を間違ってとらえるところからは、どんなに流暢に話をしても、そして、分かる、分かると相手を頷かせる話術があっても、そこからは明るい思いは流れません。
私達は、本来は、明るくて、優しくて、温かくて、柔らかな中にあったのに、肉体という形を持ったがゆえに、その形の世界を本物だとする思いをどんどん膨らませていき、自分を自分で真っ黒にしてしまったのです。真っ黒に正しくも正しくないもありません。そこのところが、なかなか理解できないのです。しかし、真っ黒は真っ黒です。だから、みんな、間違いだらけの人生を歩いてきたのです。

posted by ユーティーエーブック at 09:21| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月04日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第6回 5.間違っているものは、いずれ音を立てて崩れていきますが……


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第6回目の配信です。
今回は「5.間違っているものは、いずれ音を立てて崩れていきますが……」、ページ数ではP61~P65までの部分です。


5 間違っているものは、いずれ音を立てて崩れていきますが、今世はその手始めと思ってください

間違っているものが、いつまでも大手を振ってはいられません。最初は少しずつ、少しずつですが、ある時にドーンと崩れて、やがて、その方向を変えていくか、あるいは、崩れたまま、深い闇の中に沈み込んでいくかです。
まず、今世はその手始めだと考えていただいていいと思います。非常に大きな分岐点です。だから、少しずつ、間違いに気付いた人から、自分の軌道修正に取り組んでいくようになっています。その取り組み方法を、私達は、学んでまいりました。
長い間、間違い続けてきたことに気付けなかった私達に、今世、初めて、「真実はこうですよ、みんな間違ってきたのですよ」と伝えにきてくれた人がいました。
そして、その一方で、私達は、自分の間違いに気付いて、今度こそやり直そうと強く決意して生まれてきたということでした。
この二点は確かなことですが、堅固な土台を崩す作業には、最初は時間を要します。
間違い続けてきた長い、長い時間があります。今世の僅かな時間の間に、真実が広く流布することは、はっきり申し上げて難しいです。私達は、あまりにも、真実の世界と遠くにかけ離れてしまっているからです。
最初は要作りでした。しっかりとした中心棒が必要でした。要がぐらついているようでは、本当のことも、真っすぐに伝わっていきません。
手始めの今世には、まず、意識の目覚めがあって、その中心部分を作るというか、育てる時間が必要でした。そのように準備を万全に整えて、そして、これから、二百五十年、三百年をかけて、ドーンと崩れていく時を迎えるのです。ドーンと崩れていく時、すなわち、喜び、喜びの時を迎えるという計画です。
このように、今世は中心部分を確実に作るという意味がありますから、浅く広く流布する必要性はないということで、学びが飛躍的に広がっていくとはならないでしょう。しかし、真実は、人から人へ、心臓が鼓動するように伝わっていきます。愛のエネルギーは、確実に流れています。だから、本当に学ぶべき人達が、学びに集って、そして、ともに進んでいこうという呼び掛けに力強く呼応していくようになっていけばそれでいいんです。
学びは宗教ではないだから、人をむやみやたらと集める必要はありません。浅く広く流布していくこと、つまり、ただ単に、人を集めるのは簡単かもしれません。いいえ、簡単でしょう。欲心を刺激していけば、また、興味心を突っつけば、何の造作もなく、人は集まってくるだろうし、もちろん、お金も吸い寄せることはできると思います。しかし、それでは、過去と同じ轍を踏んでいくことになります。根本的な誤りを正さずに、つまり、「意識の転回」をせずに、目に見えない世界を求めていった結果、どうなっていったのかは、私の心はよく知っています。それは、皆さんも同じだと思います。おそらく、私達の心の中には、過去に苦い経験が山ほどあり、人集め、金集めで、我が身を滅ぼす悲惨さをいやというほど、味わってきたのでしょう。だからこそ、こうして、真実の世界を学ぶということで、みんな色々なルートで集ってきているのではないでしょうか。
今世は、大きな流れの分岐点です。私自身、今世は正念場だという思いを持って、この世に出てきました。
そして、学びを進めていく中で、過去の経験を教訓にしていかなければならないことを、ヒシヒシと感じてきました。
そして、意識の流れは粛々として仕事をなしている、愛のエネルギーが仕事をするんだということですから、間違いは必ず正される、時を待てばいいと感じています。もちろん、自分の中をしっかりと見て、意識の流れを心に感じていく方向に、日々学んでいくことは言うまでもないことです。
今世は要作り、このことを、今一度、それぞれの心で確認してください。
あなたの意識の世界の要を、今世の時間の中でしっかりと作り上げてください。あなたの意識の世界にとって、今世の出会いは、千載一遇のチャンスだと知ってください。



posted by ユーティーエーブック at 10:07| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月03日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第5回 4.他力のエネルギーが染み付いています


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第5回目の配信です。
今回は「4.他力のエネルギーが染み付いています」、ページ数ではP53~P60までの部分です。

4 他力のエネルギーが染み付いています

他力のエネルギーとは一体何だと思いますか。自分を肉だとしてきた私達人間は、誰一人例外なく、他力のエネルギーの中にがんじがらめの状態です。神、仏、宇宙のパワーが好きだという人はもちろんですが、それらを敬遠する人もまた、実は、心の中に神、仏、宇宙のパワーといった他力のエネルギーを充満させているのです。私達人間には、遠い昔から、そういった他力のエネルギーを貪欲に求めてきた歴史があります。
そこで考えてみてください。日常的に、拝んだり祭ったり、祈ったりということがない人であっても、心の拠り所、心の支えとして何かを持っていませんか。
昨今は、日本の国でも、宗教の世界が関係するおぞましい事件なども起こっています。そういう影響からか、神や仏や、宇宙のパワー、そして、宗教と言うと、敬遠したり、警戒したり、胡散臭そうにしたりする風潮にあるかもしれませんが、あなたがもし、有形、無形に関わらずに、心の拠り所、心の支えとして、何かを持っているならば、それは立派な宗教です。そして、実は、そういうものは、日常生活と密着している部分がかなりあります。心の拠り所、心の支え、あるいは、慰め、癒し、そういうものとともに、日々の生活があって、それらが、自然に生活の中に溶け込んでいる場合が多々あります。あまりにも、生活に密着しているので、そういうことは、宗教だとは思っていないかもしれません。例えば、音楽なども、心の向け方如何では、それに属すると思います。音楽によって、心が癒されると思うその思いが、他力のエネルギーと深く結びついていくきらいがあります。もちろん、音楽だけではありません。自分の外に何かを求めて、それに没頭していく自分の心をしっかりと見なければ、他力のエネルギーにがんじがらめだという自分の実態が浮き上がってこないんです。ただ単に心が安らぐ、和らぐ、癒されるだけではないと思います。音楽にパワーを求める心、あなたの中に根付いていませんか。
また、生まれついた土地柄、場所においては、拝んだり祭ったり、祈ったりすることが、日常的になっているという人達においては、それを生活習慣としてとらえて、宗教だという感覚はないかもしれません。
どちらにしましても、人はみんな宗教の世界、いわゆる他力のエネルギーを心に秘めてきました。それは、自分の本当の姿を知らずにきたから当然そうなんです。限りない転生の中で、他力のエネルギーを蓄えてきたのが私達人間です。その人に自覚があるかないかだけであって、みんな神、仏の世界を求めて、パワーを求めて、転生を繰り返してきたことは、事実です。
にもかかわらず、今現在、宗教の好きな人、興味のある人がいる一方で、嫌う人、全く興味を示さない人が、実際にあるのはどうしてでしょうか。
確かに、神、神の子、意識の世界、波動の世界という表現は、どうしても非日常的なものに感じる人は多いでしょう。
目に見えない世界、心で感じる世界というのは、大抵の人達は、二の足を踏むのではないでしょうか。一般的に、後ずさりするような感じを持たれる傾向にあるかもしれません。神や仏や宇宙のパワーを好む人も多いけれども、宗教の世界というと、即座に否定、敬遠される人も、また、多いかと思うのです。
私自身も、この学びのことを、耳で聞いていただけの時は、宗教だと思ってきました。だから、足を踏み入れることを拒絶してきたと言ってもいいと思います。拒絶するということは、それだけ神や仏や諸々のパワーを、過去において求めてきたからだったと、学びの時間を振り返れば、今はそのように納得できます。
今現在の学びでは、意識の世界とか、波動の世界とかというような表現になっているので、まだ入りやすいかもしれませんが、私が学び始めた頃は、神とか神の子という表現をしていましたので、自分の中で距離があったことは確かでした。
ところで、宗教の世界に、のめり込む人、何らかの関心を示す人よりも、反対に無関心な人、あるいは無神論者だとする人のほうが、他力のエネルギーが弱いのかと言えば、必ずしもそうではないと思います。
「宗教とは無縁だ。私はそのような世界に入りたくない」と頑なに拒絶する心からも、実際は、祈りのエネルギーが流れ出している、流れ続けているのです。
実は、そういう人達の中に心が敏感な人がいるのです。だから、本当は、そういう人達こそ、日々の生活から少し距離を置いて、ゆったりと自分を振り返る時間を持たれたらいいのではないかと思います。
案外、なぜ拒絶してきたかということを心で感じてこられたら、今度は逆に、どんどん目に見えない世界に、本当の意味で真実の方向へ自分を誘っていかれるかもしれません。
ただ、私達は、それぞれに、仕事、家事、子育て、学業、趣味、介護等々、日々の生活に追われています。その中で、自分の生活パターンを変えることは、なかなか難しいです。慌ただしく過ぎ去っていく時間の中で、束の間の安らぎや幸せを求めていくことに明け暮れる毎日だと思います。
第一、自分を振り返るという意味がなかなか分からないと思います。だから、たとえ、振り返ってみても、生まれてから今日までです。それで、何とか、自分の人生の帳尻を合わせていこうとします。自分が求め、そして、自分の中に蓄えてきた他力のエネルギーをそのままにして、帳尻を合わすことなど本当のところはできないけれど、幾重にも他力のエネルギーが染み付いてしまっているから、その中で、何とか、その瞬間、瞬間を生きていこうとすることで、精一杯なのだと思います。
今現在、占いや呪いや、その他、精神世界について興味がある人もいます。神、仏の存在を信じ一生懸命祈りを捧げ、加護を求めている人もいます。いいえ、そういうものはどうでもよく、ただ金、金の生活に忙しい人も多いでしょう。人様々ですが、その区別なく、誰もがみんな、他力のエネルギーの中に沈んでいると言っていいと思います。
そのエネルギーを、本来の喜びのエネルギー、パワーに変えていくことが、私達のこれからしていくべき仕事です。自分の中で染み付いてしまった他力のエネルギーを、どのように変えていくのか、大きな課題を残しています。もちろん、肉が自分だと思っている人間の力など非力です。そんな非力な力をどんなに束ね併せても、課題をクリアすることはできないけれど、その一人ひとりが、自分の中の愛のエネルギーに目覚め、それをどんどん流していけばいいということも分かっています。そして、そういう方向に、今、粛々と仕事がなされていると付け加えておきます。
どうぞ、あなたもその中の一人となっていけるように、自分の中に染み付いてしまった他力のエネルギーをしっかりと確認してください。そして、自分の間違いに気付き、自分の本来するべき仕事をしてください。他力のエネルギーはみんな、愛のエネルギーに変えていけるパワーが自分の中に眠っていることに、一日も早く気付いてください。

posted by ユーティーエーブック at 14:28| 奈良 ☀| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月02日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第4回 3.自分の中の自分


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第4回目の配信です。
今回は「3.自分の中の自分」、ページ数ではP39~P52までの部分です。

3 自分の中の自分

人間を形あるものとしてとらえてきた時間は、莫大です。
従って、繰り返しになりますが、「いいえ、違います。私達人間の本当の姿は目に見えないものです」と、このようなことを、いくら言われても、聞かされても、それだけでは、誰も、おいそれとは納得などしないし、できません。
ただ、そうであっても、人は、心の世界という目に見えない世界は確かにある、または、あるかもしれないと思っているのではないでしょうか。なぜならば、自分の中には色々な思いが出てくると、誰しもが感じているからです。
色々なことを思う場所が心だということに、別に異論はないと思います。
そこで、自分の中の自分を知っていくために、この心ということに注目してみましょう。
そもそも、心とは、一般的に、目に見えないものだと理解されています。そして、その心の持ち主は、あなただと言われたら、それは、何となくそうだと思うでしょうし、否定はしないと思います。しかし、心の持ち主は自分であっても、その心そのものが自分であり、自分は心以外の何物でもないということになると、どうでしょうか。心の世界というものはあるにはあるが、その心の世界を抱えている自分が現にここにいます。そして、その自分というのは、例えば、身長がこのくらいで、体重はこのくらいというふうに、誰の目でも確認することができるものと思っています。その誰の目にも確認できる自分が抱えている心の世界は、こんな世界だというのであれば、理解できるけれども、心そのものが自分であり、自分は心以外の何物でもないというところまで、実際は、なかなか行き着かないでしょう。心と自分が、どうしてもイコールで結びつかないのです。なぜならば、心は、目に見えないもの、自分は、目に見えるものだと思っているからです。
そして、心というものは通常、外に向く傾向にあります。自分の思いというものは、管理しない限り外に向いています。大抵の人は、世間の目が気になるし、一人は寂しい、人と社会と何らかの方法で繋がっていたいと思っているでしょう。また反対に、人と接するのが怖くて、自分の現実を見ない、世の中が面白くなく、仮想の世界にのめり込んでいく人達もいます。どちらの場合も心の向け先は自分の外です。
ところで、あなたは自分の心が疲れていると感じたことがありますか。自覚のある人もおられると思いますが、外に向く習性のある心はとかく疲れやすいのです。些細なことで切れる人もいます。また、先ほど一人は寂しい、人と社会と何らかの方法で繋がっていたいと思っていると書きましたが、大抵は、仲間同士、情報を共有して、みんなと大体同じような考え方、思い方であれば、とりあえず安心だということでしょう。中には、時流に乗り遅れないようにと、情報収集、情報交換に、かなりのエネルギーを消費している人もいます。その結果、常に比較対照の中で、心は疲れてしまいます。当然、安らぎたい、癒されたいという欲求が高まってきます。それがうまく発散されなければ、ストレスが重なって、自分の身体や人間関係に悪影響を及ぼすと考えられています。それはそうだと思います。だから、人は安らぎの空間を求め、癒しの何とかを手に入れ、日常から少しでも自分を解き放そうと試みます。いわゆる充電の時間を持って、明日からまた頑張ろうということだと思います。
しかし、それは本当に表面的なことで、そんなことで、自分の心が本当に癒されるわけではないし、安らぐわけでもありません。一時的には癒され、安らぎを感じるかもしれませんが、次の瞬間、また心は外の色々な影響を受けて忙しく動いていくからです。
そこで、外に向いている心を、自分の内に向けてみるということをやってみてはどうでしょうかということなんです。
外に向いている心、それを内に向けるということなんですが、色々なことを思う場所が心だということですから、その心ということに、もっと自分の思いを向けていくんです。自分から吐き出される思いに、注目していくんです。それが心を自分の内に向けるということだと思ってください。
今、自分は何を思っているのか。自分は自分の思いのままをストレートに言葉にしているか、態度に表しているか。それとも、思っていることとは裏腹なことを言っているか、態度で示しているか。まずそういうところをチェックしてみて、もしそうであるならば、何か苦しさを感じないかと自分に尋ねるんです。そうしたとき、「苦しい」とか、「お前は嘘つきだ」とか、そういう思いが出てきたならば、何で自分は苦しいのか、何で嘘つきだと出てくるのかと、また自分の心の中に思いを戻してみるんです。
そもそも、心を自分の内に向けるということがよく分からないのは、心というものは、外に向く習性があるからです。適正な管理をしなければ、心はいつも外に向いています。
とにかく、自分の判断基準は、いつも外です。人の目を通して映る自分に心を向けてしまうのです。自分はどのように見られているか、評価されているかに、大なり小なり関心はあると思います。また、人の心を探ることはあっても、自分の心の中に思いを戻してみるというようなことは、殆どの人はしていません。それでは、自分の中の自分の存在など、知る由もありません。
だから、「心そのものがあなただ」と言われても、ピンとこないし、ましてや、「人間の本当の姿は目に見えない」なんていうことを、俄かに受け入れることなどできません。何を言っているのかと鼻であしらっていくのが関の山です。
反発する人や、無視する人はいても、「はい」と、すぐさま受けていく人は、おそらくいないでしょう。それが通常だと思います。それは、どなたの心の中も、たくさんの過去からの真実を知らない真っ暗な自分がひしめき合っている状態であって、そのたくさんの自分が、一様に、総すかんを食らわしている状態なんですが、心を見るという習慣がなければ、これもまた俄かに納得することなど無理な話です。
その人が、何らかのきっかけで、学びを知っていって、自分なりに学んでこられたならば、つまり自分の心を中に向けて、自分の心を見るという作業を重ねてこられたならば、やがて時が経てば、「そうかもしれない」というふうになってくるかもしれません。しかし、「そうかもしれない」という思いが、「そうだ」となってくるには、それからまた、多くの時間を必要とするのだと思います。
たくさんの過去からの自分は、みんな、Aの土台を築き上げてきたのです。一生懸命に、形ある世界が本物だとする自分の世界を築き上げてきたのです。
それに対して、「私達は意識です。私達はみんな同じです」というメッセージは、せっかく築き上げてきたと思っている自分の世界を崩しなさいというものだから、それには、みんな、徹底抗戦の構えです。なぜならば、自分の世界が崩れるというのは、自分が崩れることになる、我一番の世界が崩れることになるからです。
まず、そのような自分の中の自分と対面して、自分の状態、すなわち、自分の今の実態を心で知っていくことから、始めなければならないのですが、気の遠くなるような長い時間の中で、ずっと自分は肉だとする思いを膨らませてきたので、肉、形を本物とする思いは非常に強いです。みんな、その中で、固まった状態です。
外から、コンコンと木槌で叩いているようでは、埒が明きません。少し、ひびが入っても、すぐに修復しようとします。そういう点においては、機敏に反応していきます。形ある世界を本物だとして、その世界にしがみついている思いは、形が崩れていくことに、最も怯えます。
そして、「何も聞きたくない。私はこれでいい。この中がいいのだ。誰がここの主を譲るものか」となかなか、その中から出てこようとはしません。しかし、私は神、私は一番と偉そうにしても、所詮は井の中の蛙なんです。
しかも、その塊が何かの拍子で溶け始めると、今度は、この世の常識とかそういったものは、完全に、度外視していきます。今まで、閉じ込めてきた、そして抑えてきた、私は神だから、何を言っても何をやっても許されるといった中の思い、つまり、我に従えの思いが、一気に表面化してきて奇妙な行動を起こしていきます。考えられないようなことを起こしていきます。それは、肉で固まった常識の側からは、全く説明がつかないような事態になってきます。訳の分からない、意味不明な言動に、おそらく当の本人ですら戸惑っているというのが本当のところなのかもしれません。それは、自分がつかんできたブラックのエネルギーに操られているに過ぎないということなんですが、と言って、自分以外の誰かに操られているのではないんです。みんな自分なんです。しかし、このみんな自分だということが分からなくて、得体のしれないものに振り回されていると、当の本人も、そして周りの人達も思い込んでいるんです。このように、肉で固まった人が、ある条件、環境に誘発されて、何の準備もなく崩れ始めたとき、その対処方法を学んでいなければ、一言で言えば、狂った状態を露にしてくるのです。いわゆるその状態は、自分の中を制御する正しい羅針盤的なるものを見失った状態です。
そして、それを見た人、聞いた人、関係した人の中に、それは、自分達の世界のことかもしれないと思う人、または、自分も同じだと実感する人が、いったい、どのくらい、いるのでしょうか。大抵は、まだまだ肉で凝り固まった状態ですから、「あの人と自分は」と区別していきます。それはあの人の世界のことであり、私には関係がない、あの人と私が同じだなんて考えられない、私にはきちんと自分を制御できる理性も知性もあると、大体このような具合でしょうか。
とは言うものの、果たしてどうでしょうか。今は、自分は自分をきちんと制御していると思っていても、どんな人も、肉のたがが外れて、中の思いが一気に噴き出してくるといったことが、全くないとは言えないと思います。
ということを踏まえて、「自分の心の中には、優しいところもあるが、その反面、悪魔か鬼のような部分もある」ということについて、自分の心の中を少し覗いてみてください。自分の中の自分というものを思ってみてください。みんな、大なり小なり、自分の二面性ということについて、何となくそうだなあと感じていると思います。しかし、自分の中に、たくさんの自分がいて、そのたくさんの自分とともに、今まさに私は存在していると、はっきりと心で感じているかということになれば、どうでしょうか。
たとえば、あなたは、過去世や来世ということを聞いたことがあるでしょうか。世の中には、人は生まれ変わるということを信じて、自分の過去世や来世を語る人もあります。しかし、そういう人達も、私はこの時代に生きてきた、あの時代にはこうだった、私の来世はこうなんだと語るだけで、自分の過去世や来世とともに、今、まさに今、生きているとは思ってもいないのではないでしょうか。
また、仮に、自分は色々な顔を持っていて、そのどれもが自分だと自覚している人であっても、大抵は、そのような鬼か蛇か悪魔のような自分は、人知れず心の奥深くに留めておいて、外見だけを取り繕っていこうとするでしょう。別に特に善人ぶることはないけれど、誰も好き好んで、自分の評判は落としたくはありません。やはり、いい人というか、気配り、配慮があって、人当たりのいい人、物分りのいい人、そのような人でありたいと思います。
そうやって、世間を渡っていく術を心得て、それが上手な人は、世渡りのうまい人となって、結構、おもしろおかしく生活していけるかもしれません。
しかし、本来は、そこに留まっていてはダメなのです。周りと無用なトラブルを起こすことはないけれど、鬼か蛇か悪魔のような自分を、しっかりと自分の中で確認しなければなりません。その作業が、外に向く習性のある心を自分の内に向けていく作業なんです。世間を渡っていく術は程々でいいんです。世渡り上手にならなくても、自分の中の自分と上手に付き合っていく術を習得してください。そして、自分の中の自分を充分に確認したうえで、夫や妻や、親や子の役を演じていけばいいのだと思います。
自分の中の自分と上手に付き合う術を心得て、そして、それぞれの役を演じていることが、はっきりと自分の中で浮き彫りになってくれば、その人が醸し出すものは、おそらく本当の意味で、いい人なのだと思います。変に媚びずに、素直で、優しい、自分の中の自分が自然体で出てきます。
鬼か蛇か悪魔のような自分の中の自分も、温もりを通過して出てくるので、正真正銘のそれにはなりません。ということは、鬼か蛇か悪魔のような自分は、特に縛り付けなくても、抑え込まなくても、あえてトラブルを起こすようなことにはならないと思います。生きる意味、生きる目的が自分の中で分かってきたら、無用なトラブルを起こして、無駄な時間とエネルギーを費やしていく時間がないと分かってくるからです。
また、夫だから、妻だから、親だから、子供だからと、ことさらに強調しなくても、相互扶助の中で生活していくことなど、簡単なことなのです。
自分の中のたくさんの自分を抑え込んで、自分は立派、私は正しいをいくらやってみても、その立派で正しい自分というものは、所詮は井の中の蛙だったんだ、ちっぽけな世界の主にしか過ぎなかったと、私はそう心で納得です。

posted by ユーティーエーブック at 14:27| 奈良 ☀| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月01日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第3回 2.形の世界を本物とする土台


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第3回目の配信です。
今回は「2.形の世界を本物とする土台」、ページ数ではP25~P37までの部分です。

2 形の世界を本物とする土台

「自分の土台とは何なのだろうか。」
「自分の土台を変えるとは、どういうことなのか。」
学びを知らなければ、そのようなことを思うことは、まずないでしょう。
しかし、ここで、あなたも一度、思ってみてください。
まず、その前に、土台というのは、次の二つがあると考えてください。
一つは、目に見えて、耳に聞こえて、触れることができる形の世界が土台となっている場合です。これを仮にAとします。そして、もう一つは、形は何もないけれど、心で感じることができる世界を土台としている場合です。この場合をBとします。
ほとんどすべての人が、今現在、Aの上で生活を営んでいます。特段の意識をすることなく、目に見えて、耳に聞こえる形ある世界を、現実の世界だと思っています。その中で、夫婦や親子をやっています。また、会社の社長や政治家、その他様々な仕事に携わっている人、そうでない人と色々ありますが、みんな、それらをAの上でやっています。
また、私達は、今、現に持っている顔形や身体的特徴から、他人と自分とを区別しています。私達には、それぞれに姓名が付けられています。あの人とこの人は別人です。このように、人間を形ある世界から見る土台の上で、すべてが成り立っています。人間社会とは、そういうものです。すべてAです。
私達は、人間を形としてとらえ、いいえ、人間に限らず、自分の周りのものすべてを形の世界からとらえて、その中で、自分達の幸せと喜びを追求していこうとしてきましたし、その中で、生きる意義、目的、目標を見つけようと一生懸命でした。それは今もそうです。
そして、現代社会において、幸せと喜びを一番端的に表現するものが、お金ということになっています。このAの土台の最大の特徴は、金銭至上主義です。
人は、お金を手にすれば、万事うまくいくと思い込んでいます。だから、お金のために、日々、争いは頻繁に起こり、それが、犯罪や不祥事にまで発展していくことも珍しくありません。
また、主義主張を述べ、正論を唱え、奇麗事を言っても、最終的には、お金をよこせ、いくらくれる、どんな保障をしてくれると、裁判を起こしたりしています。
今はそのような世の中です。結局、すべての問題の中心はお金だと、そろそろみんな気付いておられるだろうと思います。だからといって、お金で何もかも解決するわけではないし、それが全面的にいいとも思っていないかもしれないけれど、やはり、お金については、誰しもが関心があり、今の世の中において、決して、それを無視することはできないということでしょう。
いいえ、無視するどころか、お金こそすべて、金、金、金、お金さえあれば何でも手に入れることができる、幸せになるにはお金が必要だと考えている人が、圧倒的に多いと思います。それが現代人、文明人ということでしょうか。 お自分
もし、お金で買えないものがあるとするならば、真心だとか、人の情けだとかいうものでしょうか。しかし、それさえも、今に至っては危ないかもしれません。そこには、絶対にお金が動かないのでしょうか。
最初は、真心も純粋かもしれません。最初から騙してやろうという思いはなくても、段々に、お金がチラチラと見え隠れしてきたならば、その人達の結びつきは、どうなっていくのでしょうか。「札束に自分の魂は売らない」なんて、カッコイイことを言っても、形を本物とする土台の上では、それは難しいことなのではないかと思います。それどころか、人との結びつきの中には、「金の切れ目が縁の切れ目」を堂々と地で行く場合も、多いと思います。
また、永遠の命も、お金で買えないものです。しかし、お金があれば、救える命があることも事実です。お金がある人は高度な技術の治療を受けることができて、そうでない人はできない、そうなってくると、命の重みでさえも、金次第です。
形ある世界では、どうも、命を救うことや、命拾いをすることに、大きな意義があるようです。従って、命を助けることができなかったりすることを、どうしても暗く受け止めてしまう傾向にあります。
「命あっての物種」この言葉、この思いこそが、形の世界を本物とする土台を物語る極め付けだと思います。
また、形を本物とする世界の、もう一つの特徴として、戦争というものが永遠に続いていくことが、挙げられます。どんなに平和を望み、みんな仲良く豊かにと願い、話し合いの機会を持ち、解決策を模索しても、Aの土台の上では、戦いのエネルギーを消し去ることは、残念ながら不可能です。これは、これまでの人類の歴史がはっきりと物語っています。
尤も、ここで言う戦争とは、何もミサイルや銃などで、一瞬のうちに人命を奪うという、いわゆる戦争だけを指しているのではありません。そもそも、実際に人を殺すから、そこが戦場となっているのではなくて、戦いの場は、人の心の中にあります。相手を非難、攻撃、破壊するエネルギーを、心の中からどんどん流す、それが、意識の世界においては、戦うことを指します。
形を本物とする心の中は、絶えず戦いのエネルギーを流していると言っても言い過ぎではないはずです。
平等を唱えても、形の世界は不平等です。顔形から何から何までみんな同じということはあり得ないし、形だから不ぞろい、色々あっていいのです。色々とあって当たり前で、色々あるから、様々な思いが錯綜して、心の醜さを感じていくことができるのですが、Aの土台からは、そのようにとらえることができません。
この世には、地位、名誉、財産のある人、ない人、元気な人、病弱な人、頭の回転がいい人、そうでない人、そして、姿、形の美醜と色々あります。そして、現実には、みんなAの土台にあるのだから、より幸せになろう、豊かになろう、輝かしい人生を送ろうという願望が、多かれ少なかれみんなの心の中にあります。だから、経済力が豊富で、切れ者で、しかも健康で、美しくというのが幸せの第一条件になるのです。そうなるために、みんな一生懸命努力します。頑張ります。目標達成のために自分の人生を賭けていきます。世の中、おしなべて競争です。
その一方で、生活空間が豊かになればなった分だけ、潤いが削がれていくことを感じる人もあると思います。ゆっくりと人間らしく自分のペースで生きていこうという人も出てきます。
では、人々の欲望が集る都会から離れて、どこか田舎にでも引きこもって、自然とともに生活をすれば、より人間らしい、豊かな潤いのある、安らぎの空間が広がっていくのでしょうか。答えはノーです。そのようなことをしても、心の中の戦いは止めることは絶対にできません。殺伐とした中で生活をしようが、のどかな中で時を刻もうが、結局はその人の心の世界の問題、その人から流れていく波動の世界の問題だからです。その波動の世界が仕事をしていくんです。間違った真っ暗闇の波動を流し続けていれば、やがて、そこに生活をする人達を巻き込んで、とんでもない事件、事故が起こってきます。全く寝耳に水の出来事と受け取られがちですが、そうではありません。原因があって形となって表れてくる現象です。そこに必要だから現象として起こってくるのです。その現象から、私達はそれぞれに本当は学ぶべきものがあるはずなんですが、真実からほど遠くにある私達にとって、そこへ思いを届かせるには、殆ど難しい状態にまでなってしまいました。
なぜ自分が産まれてきたのかとか、人生の本当の目的は何か、自分とはいったい、どんな存在なのか、そして死ねばどうなるのかということを知る由もなく、日々時間を費やしていると言ってもいいと思います。様々な人間模様を描きながら、しかし、いずれは、それぞれの心の世界、それぞれが流す波動の世界が、形になって現れてきます。
人もまばらで、しかし、人情味が厚く緊密な繋がりのある田舎でも、犯罪は起こります。隣に住む人が誰か分からないことも珍しくない大都会において、全く無関心ということも問題があると思いますが、古い風習やしきたりが残っている田舎も閉鎖的で、そういうものに心ががんじがらめという暗さがあります。要するに、どこで生活を営んでも、それらの問題や弊害が、心の闇の部分として噴き出してくるようになっているのです。形を本物とする思いが、間違っているからです。間違いは、いずれ必ず正されます。
また、形あるものを、永遠にそのままの状態で保存しておくことはできません。形あるものは、いずれ崩れ去り、消え去っていくのです。それは、形の世界が虚像の世界だということを、はっきりと指し示しているのではないでしょうか。しかし、そんなことは分かり切ったことであるにも関わらず、人間は、これまで虚像の世界にしがみつき、自分のすべてを費やしていく過ちを犯してきました。なぜなんでしょうか。崩れ去り、消え去る虚像の世界に、刹那的に栄耀栄華を求めてきた、求めていく私達の人間の愚かさ、哀れさを、あなたは感じませんか。あまりにも愚かで、あまりにも哀れ、私は、そのように感じずにはいられません。
ところで、人の心の中の戦いを一番分かりやすい形で示しているのが、やはり、今もどこかで武器弾薬が飛び交って、人があっけなく死んでいく生々しい現実です。そこでは、神の名のもとに正義を振りかざして、人殺しをしています。
何が、聖戦なのだと思いますが、しかし、それが今の人間の心の世界の実態だと、私は思っています。
国と国、民族と民族の争いから、夫婦喧嘩に至るものまで、人間は絶えず、戦いのエネルギーを流し続けています。
互いに主義主張があります。言い分、立場があります。それはみんな心に神、仏、何とかのパワーといった実体のない全く訳の分からないものを握っているからです。しかし、神を信じ、仏の存在を信じ、パワーを信じている人達は、自分の信じている神、仏、パワーは絶対なものだと思っています。自分の心の中を見て、自分の流してきたエネルギーを知っていくことをしない限り、自分が握っているものがどんなものなのかは全く分かりません。自分の中で握っているもの、神、仏、パワーの世界は素晴らしい世界だと大真面目に思い込んでいます。信じ込んでいるんです。だから、大抵は、その心に染みついた世界を離していくことなどできないんです。
私達人間は、自分の心が何を握っているのか、それがどんなエネルギーなのか、どんな実態なのか、全く知らずにきました。
しかし、現実には、心に神、仏、何とかのパワーといった実体のない全く訳の分からないものを握っているので、例えば、利害の異なる両者が、条件付きの譲歩で、何となく和解を成立させたとしても、中はくすぶり続けています。和解したからといって、相手を攻撃するエネルギーは、消えて無くなったわけではありません。まだまだ、相手を攻撃するエネルギーが満ち溢れている中にあります。だから、どんなに幸せになろう、豊かになろうとしても、ひとつに融和することなど無理なことなのです。
それは、今、実際に世間で起こっている事件や事故などによっても、毎日、毎日、私達の目の前に、はっきりと示されています。
そろそろ、おかしい、何かおかしい、みんな狂っているのではないかと気付いてこられてもいいようなものです。しかし、形を中心に据えた土台は、まだまだこんなことくらいでは、崩れ去ることはないのでしょう。それほど堅固な土台を、私達は築いてしまいました。
それもその通りなのですが、揺るぎのない堅固な土台だと思う思いもまた、本当は違っています。その土台は、実は、風の一吹きで、大地の一揺れで、儚くも崩れ去っていく砂上の楼閣なんです。
だから、そのことを、これからの時間をかけて証明していく方向に、粛々と流れていき、確実に、形を本物とする土台は崩れていきます。それを私達は、意識の流れと呼んでいます。この意識の流れを心に感じられる人間に蘇っていきましょうということなんです。

posted by ユーティーエーブック at 16:40| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月31日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第2回 1.意識の転回は難しい?!


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第2回目の配信です。
今回は「1.意識の転回は難しい?!」、ページ数ではP17~P24までの部分です。

1 「意識の転回」は難しい?!

先ほど、「意識を変える」という言葉を挙げましたが、それは、一般的には、自分の思いを変える、物の見方、考え方、価値基準を変える、そのように理解されているだろうと思います。
そうは言うものの、自分の思いを変える、物の見方、考え方、価値基準を変えるということは、口で言うほど容易いものではありません。一時的に、何かしら、自分の中が変わったことを感じても、人間の心は、そう簡単には変わらないと考えるほうが妥当でしょう。
もっと言えば、人の思い癖、心の癖は、そう簡単に変えることなどできないということです。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとか、または、元の木阿弥という言葉にもあるように、思い癖とか心の癖は、なかなかしぶといものがあります。文字通り、「癖」ですから、ある時期を通り過ぎれば、また元に戻っていることのほうが、多いのではないでしょうか。
このように、人間の心が、そう容易く変わらないのと同様に、「意識の転回」というのも、大変難しいものだと考えてください。それは、ただ単に、「意識を変える」というものではないからです。確かに、物事のとらえ方、見方、価値基準、判断基準を変えていくことに違いはありませんが、「はじめに」のところでも触れましたように、「意識の転回」とは、その基準となる土台を全く、つまり、百八十度変えることを言います。土台を変えるんです。いくら、見方、価値基準を変えても、土台が同じでは、それは、「意識の転回」とは、全く違うもの、似て非なるものです。
たとえ、九死に一生を得た体験から、人生観、世界観、価値観、それらのものが、自分の中で一変したと感じられても、果たして、それが「意識の転回」という次元のものになり得るかと言えば、私は、全く疑問だと思っています。もっとはっきりと言うならば、それは、「意識の転回」とは、似て非なるものなのです。
九死に一生を得た体験、あるいは、目から鱗が落ちるほどの体験というのは、今まで自分はこう思って、これが正しいんだとして生きてきたけれど、これからはこのように思って生きていこうと、かなり大きな決意をその人に促していくものに違いありませんが、それでは、その人の土台はどこにありますかということになってくれば、まだまだ、やはり目に見える形の世界にあると言わざるを得ないでしょう。仮に、そういう体験、経験がある人であれば、今世、その人は何らかのルートで、今頃は、きっと、この学びに集われていると思います。ここにしか、真実を伝えてくれるところがないからです。だから、当然、学びに集われて、そして、それこそ、目から鱗が落ちる体験をどんどん積み重ねられて、ぐんぐんと真実の世界のほうへ、心を向けていかれるようになっていると、私自身は思っています。しかし、残念ながら、いまだそういう人には、出会っていません。
ということは、今、自分が体験した出来事により、たとえ、その人が目から鱗が落ちたような感覚になって、さあ、ここからが私の再出発だと思っていても、本書でお伝えしようとしている意識の転回へのスタートとは異なっているのだと思います。そこには大きなズレがあるということです。
一命に関わるような出来事に出会って、九死に一生を得た命だから、生まれ変わった気持ちでやっていこう、頑張ろうと、そういう人生における転機が訪れても、それが、果たして、「自分の土台を変えていくほどの衝撃を伴う転機」になり得るのかと言えば、なかなか、それは難しいと思います。もちろん、「この肉体は自分ではない」とする思いが、一直線に自分の中に入ってくるほどの衝撃というのは、そうざらにはありません。あるとするならば、それは、やはり、「人の生き死に」が、関わってくると思います。それも、単に自然消滅的なものではなくて、ある日突然に、そして全く想定外に起こってくるものによって、もたらされる場合と言えば、察しが付くでしょうか。従って、「人の生き死に」以外では、目から鱗が落ちる体験が、自分の土台を変えていくことは、はっきり申し上げて難しいと、私は思っています。それほど、私達は、形の世界、目に見える世界を本物としてきた、目に見える世界をずっと握ってきたということなんです。
そこから自分の生き方を再スタートさせても、本来歩むべき生き方とは大きなズレがあります。そして、スタートが大きくズレていれば、あとは当然ズレてきます。最初の第一歩が違うから、それを訂正することなしに、どれだけの時を重ねても、その結果は……ということになるでしょう。
自分自身は、目から鱗が落ち、生まれ変わったと思ってみても、土台が同じなら、五十歩百歩の世界だと、私は思っています。そういうことは、本書で言うところの「意識の転回」とは似て非なるものだと考えていただいていいと思います。
しかし、世間では、そういう話は、堂々と通じます。いいえ、そういう話こそが、人々の共感を呼び、感動を巻き起こしていくのでしょう。
「心が洗われるようだ」「何とも感動いたしました」「清々しい思いに出会いました」「私は生きる勇気を頂きました」「大いなる励みになります」「私も頑張っていきます」
そのような様々な声も聞かれるでしょう。
その話の中に、形の世界を土台にして生きていれば、そうだ、そうだと共鳴できることは多々あるとしても、土台が違う世界からは、決してそうはなりません。先ほど、五十歩百歩と言いましたが、みんなまとめて十把一からげです。一括りにまとめて、地獄へまっしぐら、それが本当のところだと私は思うのです。何度も言いますが、何と言っても土台の問題なんです。
三十年学んできても、難しいです。一口に三十年と言いますが、三十年は長い時間だと思いませんか。その間に、どれだけセミナーの回数を重ねてきたでしょうか。
日本全国、そして、アメリカ、韓国にまで、足を伸ばして、セミナーが開催されてきたのです。
もちろん、セミナーに参加されてきた人達の殆どは、一生懸命に、自分とは何か、人生とは何かを学ぼうと思ってこられたに違いありません。だからこそ、二十年、三十年と続いたのです。学ぶ動機やその他、様々な障害となるものがあって、一足飛びにはなかなか進めなかったことは事実だったとしても、ここにしか真実はないことを、それぞれに心のどこかで感じてこられたから、三十年続いてきたのだと思います。
それでも、なかなか、なかなかという感はあります。ましてや、学びをしていない人に至っては、こういうお話を耳にしても、全く素通りしてしまうのが実際のところです。全く乗ってこないです。
私は、だから嘆いているのではありません。まだまだ時間がかかることを承知で、しかし、私自身の心で感じていることは、決して揺るぎのないことだから、難しいのも分かりつつ、また、このようにパソコンのキーを叩きたくなるのです。
そこで、大変難しくて、難行苦行ばかりを強調しても仕方がありませんので、例えば、私というごく平凡な人間の事例を挙げさせていただいて、この先のページを進めていきたいと思いますので、もう少し、お付き合いください。

posted by ユーティーエーブック at 16:57| 奈良 ☀| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」はじめに


今日からは、2015年6月発行の「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」(塩川香世 著)を読み進めていきたいと思います。第1回目は、「はじめに」の部分を著者である塩川香世さんに朗読していただきます。ページ数では、1ページから12ページの部分です。

はじめに

あなたは、「意識の転回」という言葉を、耳にしたことがあるでしょうか。
そもそも、「意識」という言葉を、あなたは日常的に使っていますか。
「何かを意識する」とか、あるいは「意識を変える」とかいうふうに、使われているかもしれません。
しかし、「意識の転回」という言葉は、どうでしょうか。なじみが薄いと思います。「意識の転回」とは何だろうか。初めて聞いたと思われる方もあるでしょう。
確かに聞き慣れない言葉です。そこで最初に断っておきます。
約三十年前から、あるセミナーが開催されてきました。そして、そのセミナーのテーマは、次のような内容でした。
「私達人間の本当の姿は目に見えません。肉体という形は私達人間の本当の姿ではありません。私達は、意識、波動、エネルギーとして永遠に存在しています。」
このテーマをクリアするための絶対条件が、「意識の転回」ということなんです。
上記のカギカッコで括られた文章は、どなたも自分の頭では決して理解できない内容です。しかしながら、それは、どなたも自分の心で理解できるのです。心で理解する。頭ではなく心で。ここが大きなポイントです。
そして、このテーマをクリアするにはとありますが、そもそもクリアする必要があるのかと言われるかもしれませんが、そうです、どなたもみんなクリアする必要があります。だから、私達は、今世もまた産まれてきたんです。産んでいただいたんです。自分の本当の姿を心で知るために産まれてきた、産んでいただいたということを、まず、心に留めておいてください。
ここでセミナー云々のところまで、話を戻します。大阪府南河内郡在住の現在御歳八十八歳の老人、田池留吉氏という人を中心に、このテーマについて、セミナーが主に日本各地で開催されてきて、三十年余りの年月を経て今に至っています。
「意識の転回」という言葉は、そのセミナーで使われてきた言葉なんです。
セミナーの中で、「意識の転回」とはどういうことなのかということを、「コペルニクス的転回」を例にとって繰り返し説明がありました。
この「コペルニクス的転回」というのは、皆さんご存じだと思います。いわゆる天動説と地動説のお話です。そうです。太陽が地球の周りを回っているという考え方(天動説)と、地球が太陽の周りを回っているという考え方(地動説)のお話です。言うまでもなく両者は全く違います。
このように、「コペルニクス的転回」に例えられた「意識の転回」とは、考え方の根本を一八〇度変える、転回をすることだと思ってください。
根本を一八〇度変えるということですから、それは、ただ単に考え方を変える、転回するというのでなくて、物の見方、考え方の土台を全く変えるということなんです。この土台というところがポイントなんです。土台を全く変えるということがポイントなんです。
そこで、物の見方、考え方の土台を全く変えるとはどういうことなのか、どうしていくことなのか、どうすればそれがスムーズに捗っていくのかということを、これから語っていきたいと思います。
田池留吉氏は、セミナーの中で、「目に見えて、耳に聞こえて、手に触れることができる形ある世界がすべてだ。そこに人間の喜びと幸せがある」とする物の見方、考え方を天動説に見立てました。そして、「いや違う。そういう世界はいずれ消え去る世界であり、私達人間の本当の喜びと幸せは、そのような世界にはない」とする物の見方、考え方を地動説に見立て、私達人間は、この天動説から地動説への転回を自分の中で起こすために、生まれてくるんだと語りました。
「人間の本当の喜びも幸せも、そして、人間という存在そのものも、『意識の転回』なくして、絶対に分からない。」
これが学びの中心部分、結論です。
しかしながら、「私達は、意識、波動、エネルギーとして永遠に存在しています」と唐突に言われても、実際は、そう簡単には分かるわけもなく、納得などできないと思います。
今、現に、肉体という形を持っているのに、それが私達の本当の姿ではなく、私達は、本当は目に見えないものなんだと言われても、それをそのまま鵜呑みにすることはできない、無理というものです。実感が湧いてきません。目に見えない世界は、文字通り目に見えないんだから、そんなものはあるのかないのか分からないというのが、現実のところだと思います。
確かに世の中には、心が敏感で色々なことを感じる人はいます。目に見えない世界があることを心で感じておられる人もいるでしょう。昔から、霊魂と通じ合うとか、霊媒とか、そういうことはあったようです。今は、さしずめ何とかのパワーでしょうか。とにかく、目に見えない世界、形がない世界のことを語ってきた人は、昔から存在していました。だからといって、その人達が、目に見えない世界、形がない世界だけを本物だと思ってそうしてきたのかと言えば、そうでもなさそうです。それどころか、実はそういう人達ほど、本当は最も危険なのです。
なぜか。
それは、まだ、自分の中で、「コペルニクス的転回」すなわち、意識の転回が始まっていないからです。つまり、それはどういうことなのかと言いますと、その人達は、「目に見えない世界、形がない世界がある」と語っておきながら、自分自身については、今、肉体を持っている自分が自分だと思っているんです。当然、その人達の物の見方、考え方は、形の世界を本物とする土台の上にあります。その土台の上で、目に見えない世界のことを語り、霊だとか魂だとか、宇宙のパワーを感じたとか、霊界と交信しているとか、本当にいい加減なことを語っているに過ぎないんです。いいえ、事態はそんな単純なものではありません。そうすることによって、みんな自分の中からどんどん、どんどん、ブラックのエネルギーを放出している、垂れ流している状態なんです。しかも、そのことがどういうことなのか、何を意味しているのかさえ知らずにいます。だから、そうしているうちに、まず、自分自身の雲行きが段々おかしくなっていくんです。それはお定まりのコース、当たり前のことなんです。
雲行きがおかしくなるというのは、例えば、俗に言う心が敏感であって、一般の人には見えないものがその人には見えたり、聞こえないものがその人には聞こえてきたりしたときに、その人達はみんなそれで、自分を表していくんです。自分は特別だと思っていくんです。自分というのは、もちろん、目に見える自分です。そして、殆どの人達は、見えた、聞こえたということに有頂天となり、振り回されていきます。自分を動かし、操っている正体は何かということには気にも留めずに、また分かろうとも、知ろうともせずに、私にはこんなことが見えるんだ、聞こえるんだという部分だけを誇張してしまいます。だから、そういう状態を野放しにしていると、その人達には、間違いなく病院行きか、何か事件かトラブルを起こすだろうという結末が待っています。なぜならば、その人達は、自分の中の思い、中から聞こえてくる声にのみ従っていくからです。そして、実はその思い、声というものは、先ほど触れたブラックのエネルギーなんです。その状態は、ブラックのエネルギーに突き動かされているといった、全くの操り人形、危険な傀儡状態です。だから、ふと気が付けば、自分を傷つけ、他人をも傷つけてしまっていたという状態になっているんです。最近、巷では、訳の分からない事件が頻繁に起こっていますが、それはこういうことだと思います。
そして、そのような操り人形、傀儡状態にある人達は、それ以上に、もっと大きな間違いを犯していきます。何かを感じるがゆえに、人を導いていこう、救ってあげよう、私には大きな使命があるという大それた間違いを犯しやすいのです。つまり、この場合も同じです。自分の心を見るということを知らないから、そこに働くエネルギーがマイナスであることに、なかなか気付けずに、自分の中から語ってくるブラックの世界のままに、人を導いていこう、救ってあげましょうと、今の自分の肉体を動かしていきます。もちろん、その人達は、ある種の使命感に燃えているのだから、誰もそこに働くエネルギーがマイナス、つまりブラックだなんて思いもしていません。自分は正しいんです。自分は偉いんです。中から届く思いがそう伝えてくるんです。中からそう語ってくるんです。あなたには大きな使命がありますよと。あなたは特別なんですよと。そうなってしまうと、狭い、狭い、そして暗い真っ暗な中にすっぽりとはまってしまって、悲しいかな、無知とエゴと欲で突き動かされていることに、全く気付けません。それどころか、それらを自分の中でどんどん膨らませて、何かを感じるがために、その目に見えない形のない世界から聞こえてくる声を、もっと知ろうとしていくし、もっと知って、もっと語っていきたいという欲の思いを募らせていくのです。人には見えないもの、聞こえないものが、見えて聞こえて感じてくれば、自分は特別だから、素晴らしいからそうなるのだと思っていくのです。そして、不幸せにも、自分には大きな使命があると大真面目に思ってしまい、信じ込んでしまい、人を導き、救うことが良いこと、正しいことだと思ってしまうのです。それが、いわゆる宗教の世界の教祖、開祖、指導者達が通るお定まりのコースです。
形の世界を本物だとする土台の上からは、なぜ人を導き、救っていくことが間違いであるのかは、絶対に分かりません。だから、そうなってしまえば、大きな使命がある人など存在しないということなど、その人達には納得できるわけはないし、絶対に分からないでしょう。
分からないどころか、それが己を掲げる思いであり、己を表す思いであり、ブラックの世界だなどとは、到底認めることはできません。自分がどれほどの悪臭を放っているのかなどということについて、全く受け入れ難いことであり、到底承服できないはずです。
しかし、形の世界を本物とする土台、自分を肉だとするところからは、間違いなく悪臭の立ち込めた真っ黒なエネルギーが噴き出しているのです。そして、その真っ黒なエネルギーが、様々な現象を起こしていくのです。もちろん、それは間違っていますよというサインに他なりません。言い換えれば、それは、気付き、促しの現象です。だから、形を見ればマイナスの現象と映りますが、その根底に流れるものはプラスの波動なんです。
本来は、マイナスの現象などないんですが、形の世界を本物とする土台からは、当然、崩れていく形の世界ばかりを見ていきますから、それはマイナスとして受け取ってしまうということです。
繰り返します。すべての現象は本来プラスなんです。にもかかわらず、なぜプラスとして受け取れないのか、なぜそこから正しく学び取ることができないのでしょうか。それは、受ける側に問題があるからです。受ける側の土台に問題ありということです。
さて、ここで話を戻します。
セミナーが開催されて、三十年以上の年月を経てきました。その間、何百回と、セミナーが開催されてきました。どれだけの時間とエネルギーを割いてきたことでしょうか。それだけの年月を掛けても、残念ながら、現実は、その中心部分である「意識の転回」がなかなかなのです。
なぜだと思いますか。そして、なぜ、「意識の転回」がなされなければ、本当のことは分からないのでしょうか。
「私達の本質は、意識、波動、エネルギーです。」
こんなたった一行のメッセージなのに、これを心で分かることは非常に難しいのです。
「誰も何もあなたを救うことはできない、あなたを救うのはあなた自身です。」
これも、セミナーで言い尽くされてきた文言です。
これと同じようなことを、どこかで耳にされたり、目にされたりした人もあるでしょう。
しかし、人間を形あるものとしてとらえた土台から発せられた言葉と、人間は形ではないとする土台から発せられたそれとでは、語る文言は同じでも、その中身が全く違います。つまり波動が全く違うんです。中身とは、言葉ではなくて、波動です。
それでは、あなたが流す波動は、プラスなのでしょうか。それともマイナスなのでしょうか。
そのことを含めて、「意識の転回」が、すべてのキーワードだということを、私なりに語ってみますので、少し、時間をください。

posted by ユーティーエーブック at 10:07| 奈良 ☀| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする