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1 「意識の転回」は難しい?!
先ほど、「意識を変える」という言葉を挙げましたが、それは、一般的には、自分の思いを変える、物の見方、考え方、価値基準を変える、そのように理解されているだろうと思います。
そうは言うものの、自分の思いを変える、物の見方、考え方、価値基準を変えるということは、口で言うほど容易いものではありません。一時的に、何かしら、自分の中が変わったことを感じても、人間の心は、そう簡単には変わらないと考えるほうが妥当でしょう。
もっと言えば、人の思い癖、心の癖は、そう簡単に変えることなどできないということです。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとか、または、元の木阿弥という言葉にもあるように、思い癖とか心の癖は、なかなかしぶといものがあります。文字通り、「癖」ですから、ある時期を通り過ぎれば、また元に戻っていることのほうが、多いのではないでしょうか。
このように、人間の心が、そう容易く変わらないのと同様に、「意識の転回」というのも、大変難しいものだと考えてください。それは、ただ単に、「意識を変える」というものではないからです。確かに、物事のとらえ方、見方、価値基準、判断基準を変えていくことに違いはありませんが、「はじめに」のところでも触れましたように、「意識の転回」とは、その基準となる土台を全く、つまり、百八十度変えることを言います。土台を変えるんです。いくら、見方、価値基準を変えても、土台が同じでは、それは、「意識の転回」とは、全く違うもの、似て非なるものです。
たとえ、九死に一生を得た体験から、人生観、世界観、価値観、それらのものが、自分の中で一変したと感じられても、果たして、それが「意識の転回」という次元のものになり得るかと言えば、私は、全く疑問だと思っています。もっとはっきりと言うならば、それは、「意識の転回」とは、似て非なるものなのです。
九死に一生を得た体験、あるいは、目から鱗が落ちるほどの体験というのは、今まで自分はこう思って、これが正しいんだとして生きてきたけれど、これからはこのように思って生きていこうと、かなり大きな決意をその人に促していくものに違いありませんが、それでは、その人の土台はどこにありますかということになってくれば、まだまだ、やはり目に見える形の世界にあると言わざるを得ないでしょう。仮に、そういう体験、経験がある人であれば、今世、その人は何らかのルートで、今頃は、きっと、この学びに集われていると思います。ここにしか、真実を伝えてくれるところがないからです。だから、当然、学びに集われて、そして、それこそ、目から鱗が落ちる体験をどんどん積み重ねられて、ぐんぐんと真実の世界のほうへ、心を向けていかれるようになっていると、私自身は思っています。しかし、残念ながら、いまだそういう人には、出会っていません。
ということは、今、自分が体験した出来事により、たとえ、その人が目から鱗が落ちたような感覚になって、さあ、ここからが私の再出発だと思っていても、本書でお伝えしようとしている意識の転回へのスタートとは異なっているのだと思います。そこには大きなズレがあるということです。
一命に関わるような出来事に出会って、九死に一生を得た命だから、生まれ変わった気持ちでやっていこう、頑張ろうと、そういう人生における転機が訪れても、それが、果たして、「自分の土台を変えていくほどの衝撃を伴う転機」になり得るのかと言えば、なかなか、それは難しいと思います。もちろん、「この肉体は自分ではない」とする思いが、一直線に自分の中に入ってくるほどの衝撃というのは、そうざらにはありません。あるとするならば、それは、やはり、「人の生き死に」が、関わってくると思います。それも、単に自然消滅的なものではなくて、ある日突然に、そして全く想定外に起こってくるものによって、もたらされる場合と言えば、察しが付くでしょうか。従って、「人の生き死に」以外では、目から鱗が落ちる体験が、自分の土台を変えていくことは、はっきり申し上げて難しいと、私は思っています。それほど、私達は、形の世界、目に見える世界を本物としてきた、目に見える世界をずっと握ってきたということなんです。
そこから自分の生き方を再スタートさせても、本来歩むべき生き方とは大きなズレがあります。そして、スタートが大きくズレていれば、あとは当然ズレてきます。最初の第一歩が違うから、それを訂正することなしに、どれだけの時を重ねても、その結果は……ということになるでしょう。
自分自身は、目から鱗が落ち、生まれ変わったと思ってみても、土台が同じなら、五十歩百歩の世界だと、私は思っています。そういうことは、本書で言うところの「意識の転回」とは似て非なるものだと考えていただいていいと思います。
しかし、世間では、そういう話は、堂々と通じます。いいえ、そういう話こそが、人々の共感を呼び、感動を巻き起こしていくのでしょう。
「心が洗われるようだ」「何とも感動いたしました」「清々しい思いに出会いました」「私は生きる勇気を頂きました」「大いなる励みになります」「私も頑張っていきます」
そのような様々な声も聞かれるでしょう。
その話の中に、形の世界を土台にして生きていれば、そうだ、そうだと共鳴できることは多々あるとしても、土台が違う世界からは、決してそうはなりません。先ほど、五十歩百歩と言いましたが、みんなまとめて十把一からげです。一括りにまとめて、地獄へまっしぐら、それが本当のところだと私は思うのです。何度も言いますが、何と言っても土台の問題なんです。
三十年学んできても、難しいです。一口に三十年と言いますが、三十年は長い時間だと思いませんか。その間に、どれだけセミナーの回数を重ねてきたでしょうか。
日本全国、そして、アメリカ、韓国にまで、足を伸ばして、セミナーが開催されてきたのです。
もちろん、セミナーに参加されてきた人達の殆どは、一生懸命に、自分とは何か、人生とは何かを学ぼうと思ってこられたに違いありません。だからこそ、二十年、三十年と続いたのです。学ぶ動機やその他、様々な障害となるものがあって、一足飛びにはなかなか進めなかったことは事実だったとしても、ここにしか真実はないことを、それぞれに心のどこかで感じてこられたから、三十年続いてきたのだと思います。
それでも、なかなか、なかなかという感はあります。ましてや、学びをしていない人に至っては、こういうお話を耳にしても、全く素通りしてしまうのが実際のところです。全く乗ってこないです。
私は、だから嘆いているのではありません。まだまだ時間がかかることを承知で、しかし、私自身の心で感じていることは、決して揺るぎのないことだから、難しいのも分かりつつ、また、このようにパソコンのキーを叩きたくなるのです。
そこで、大変難しくて、難行苦行ばかりを強調しても仕方がありませんので、例えば、私というごく平凡な人間の事例を挙げさせていただいて、この先のページを進めていきたいと思いますので、もう少し、お付き合いください。