2016年09月01日

愛、あなたは愛です vol.05


「私達人間の本当の姿は、目に見えません。私達は意識、エネルギーとして永遠に存在しています。」
「私達の本質は、愛です。愛のエネルギー、パワーが私達なんです。」
私達は意識だ、愛だと信じて瞑想をするのと、それを信じずに瞑想をするのとでは、瞑想といっても、実は似て非なるものなんです。


「愛、あなたは愛です」、第5回目の今日は、第一章「愛(本当の自分)に目覚めよう」。ページ数では、32ページから42ページまでの朗読です。



【参考】(朗読部分のテキストです)
「愛、あなたは愛です」第一章  愛(本当の自分)に目覚めよう p32~p42
 ※途中、本書に付け加える形で、著者のコメントが入る部分があります。

そこで登場するのが、瞑想という作業です。

母の反省と他力の反省を、正しい瞑想を通して、さらに深くしていくんです。

正しい瞑想の正しいというのは、あなたの心の向け先を言っています。

先に書きましたように、瞑想をするにあたって、たったひとつ重要なことがあります。

あなたが何を思い、どこに心を向けて瞑想をしているのかということです。

それがいわば、真実を知っていけるかどうかの大きな分かれ道です。

そして、それは言うまでもなく、以下の太字のメッセージを大きな、そして唯一の柱にしたものでなければなりません。


私達人間の本当の姿は、目に見えません。私達は意識、エネルギーとして永遠に存在しています。」「私達の本質は愛です。愛のエネルギー、パワーが私達なんです。


私達は意識だ、愛だと信じて瞑想をするのと、それを信じずに瞑想をするのとでは、瞑想といっても、実は似て非なるものなんです。

そして、このメッセージを私達に伝えてくれたのが、田池留吉という人でした。

田池留吉氏については、拙著「その人、田池留吉Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」をはじめ、UTAブックさん発刊の本にすでに書いていますので、本書では省略させていただきます。

ただ、田池留吉氏は、教祖とか指導者とか、そういう立場の人ではないことだけは、本書でも強調しておきます。


結論を言えば、田池留吉に心を向けて瞑想をするというのが、正しい瞑想なんです。

そこで問題となってくるのは、これまでに、田池留吉氏に会ったことがない人達、会ったことはないけれど、名前は聞いている、あるいは写真で顔を知っている人達です。

会ったことはもちろん、顔も知らない、名前も知らない人達は少し置いておくとして、名前を聞いたことがあるとか、写真で顔を見たことがあるというのであれば、その人が、本当に母の反省や他力の反省を通して、自分の心を見るという実践をなさって、自分の心を真実の方向に向けようとしているならば、もちろん、正しい瞑想をすることは理論上、可能です。

というのは、正しい瞑想とは、田池留吉に心を向けるということであって、田池留吉氏に心を向けることではないからです。

田池留吉氏と、田池留吉とは違います。呼び名が同じだから、全く無関係とは言いませんが、決定的な違いあります。

田池留吉氏は、あなたの外に存在しています。

田池留吉は、あなたの中に存在しています。

しかも、田池留吉というのは、どなたの心の中にも、もともとあった喜びと温もりの意識の世界です。

だから、その人が、本当に上記の太字のメッセージを心で感じて、田池留吉というのもまた、意識、エネルギーだ、愛のエネルギーだととらえようとする方向に、自分の心を素直に向けていけば、今世、田池留吉氏と実際に話をするとかいうお付き合いがなくても、正しい瞑想ができるということです。ただし、これは非常に難しいということも確かです。

しかし、そういう人が、どんどん心を向けてきて、セミナーに参加してみようかということになって、セミナー参加が現実のものとなれば、話はまた違ってきます。

特に田池留吉氏と直接に話をすることがなくても、そういう人であるならば、セミナーに参加したということで、何かその人の意識の世界に届くものがあるはずです。それが本来の意識の世界の仕組みです。

従って、その逆も言えるんです。

上記の太字のメッセージの意識の転回が停滞している人は、よく、よく、田池留吉氏を知っていても、まだまだ真実よりも道遠しということでしょう。

実生活で田池留吉氏をよく知っている、田池留吉氏とお付き合いがあるということと、田池留吉の意識の世界と歩みをともにしているということは、関連しません。

以上、瞑想ということから、田池留吉氏が、二十年余りに及ぶセミナーで伝えてくれたことを、かいつまんで記してみました。


これより先は、日々の中で時間を作って、田池留吉に心を向け、私は愛ですと思って瞑想をしたときに、私の心に伝わり響いてきた思いを書き留めたものを中心にしながら、その都度、心に上がってきた思いを綴っていきます。


それに先立って、少々注釈です。

文中、田池留吉と同様にアルバートという言葉も多く出てきます。

田池留吉も、アルバートも意識、エネルギー、波動の世界の総称だと考えてください。

その世界は喜びと温もりだけの無限の世界、まさに愛の世界。

そして、それが私達の本当の世界だと、そういうふうにご理解ください。名前にこだわらないでください。記号くらいに思ってください。名前はどうでもいいんです。今は便宜上、そういう名前で呼んでいるだけですから。

 また、宇宙という言葉ですが、この宇宙というのも、意識の世界を指しています。

私達が知っている地球、太陽、月、太陽系、銀河系等々、それらをひっくるめて宇宙と言っている宇宙のことではありません。

宇宙ということについては、拙著「宇宙の風」に詳しく語っていますので、よろしければご参照ください。

そして、あと一つ。異語という言葉です。

異語とは、たとえば日本語であるとか英語、中国語というようなものではありません。確かに口から音を発しますが、そこには、主語とか述語はありません。異語で伝えるものは波動です。エネルギーです。

私達は意識、エネルギーですから、異語を通して、すべての意識達と通じ合えるんです。


要は、正しい瞑想を重ね、愛であった自分に目覚め、愛であった自分を自分の中に流し、愛であった自分とともに帰っていくことが私達の願い、切なる思いでしたということに、それぞれがそれぞれの心で感じ知っていかれたらいいんです。

そうなっていけば、あなたの人生、あなたのこれからの時間は、目に見えない世界からの働きかけにより、様変わりに変わっていくでしょう。

あなたの人生、あなたの時間と申しましたが、私は、今、肉体を持っているあなたの人生、あなたの時間に限定しているのではないことを、蛇足ながら明記しておきます


皆さんも、どうぞ、愛を思い瞑想を重ねていく日々をお過ごしください。

私は思う喜び、思える喜びを味わっています。

瞑想を重ね、自分の心に伝わり響いてくるこの波動、このエネルギーだけが私には信じられる現実です。

この波動、このエネルギーに触れ、感じ、そしてその中にある自分だったことが信じられることが、どれだけ幸せであり喜びであるか、私の中にはっきりと伝わってきます。

ともにある喜びです。通じ合える喜びです。


態度、表情、言葉等々の形を伴って示されていく優しさであるとか、温もりであるとか、いわゆる形の世界におけるそういうものは理解できるけれど、そういうものは何もなくて、ただ心に伝わり響いてくる波動、エネルギーを感じ信じていくことは、肉、肉で生きてきた鈍感な私には、実際のところ、本当に難行苦行でした。

しかし、何時の頃からか、この肉を纏っている私、この私以外に存在している私というものを、私は心で感じるようになってきました。

肉の私が思っていることと、何か違うことが私の中から伝わってくる感覚が、正しい瞑想を重ねていく中で、はっきりとしてきたんです。

そして、おそらく、その時点で私が母の温もりを心に感じていなければ、その私の中から伝わってくる思いは、また巧妙にブラックの世界とすり替えられていたに違いないということも、自分の心で分かってきました。

知らずのうちに、己を前に出していく、己を掲げていく危険性と、その落とし穴に自らはまっていく恐ろしさ、愚かさです。

だから、いかに、母の温もりが大切なポイントであるのか、私はそのところを無事クリアできたから、混乱なく、今を迎えているんだと思っています。

今、私は、瞑想をして、どんなに凄まじいエネルギーを感じようとも、それは私の中ですでに喜びと化し、温もりに帰っていくエネルギーであることを確認済みです。

心を向けていけばいくほどに、私の中の愛のエネルギーが応えてくれる喜びを感じています。

だから、私にとって、瞑想はただただ喜びです。

思う喜び、思える喜び。ともにある喜び、通じ合える喜び。

一つの肉体を持たせていただいたことに、限りない優しさを感じています。

posted by ユーティーエーブック at 11:03| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、あなたは愛です」(全30回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする