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16 苦しんできた自分のために、どれだけ力を尽くしてきたか
「苦しんできた自分のために、どれだけ力を尽くしてきたか」と尋ねられれば、あなたはどんな返答ができますか。
そして、「あなたが力を尽くし、エネルギーを注いできたのは、全部偽物の自分のためではないのですか」と言われたならば、どうでしょうか。様々な思いが伝わってきます。
「苦しんできた自分とは、何か。偽物の自分だと言われても、どこがどう偽物なのだ、私には分からない。」とか、あるいはこうです。
「あなたの言うことは私には理解できない。それは、私だけではないはずだ。私の周りの誰に聞いても、こんなこと、理解できるはずがない。」等々。
また、事件、事故などをテレビなどで見聞きしていると、同様に、実に様々な思いが伝わってきます。
「確かに、金だけで幸せになれるはずがないが、しかし、金がなければ、一日だって生きてはいけないではないか。」
「病弱な身体で、一体何ができるのか。」
「知能に障害があったり、常軌を逸した精神状態だったりでは、まともな社会生活を送れるはずがない。お気の毒だが、それも運命と諦めてもらうより仕方がない。私は、お陰さまで、五体満足の身体に恵まれた。とにかく、一生懸命、自分が正しいと思っていることをやるまでだ。」
「私の人生だ。だから、勝手気ままに生きてやる。誰にも何も言わせはしない。」
例えば、このような言い分、思い方には、極端な部分があるかもしれませんが、しかし、口にこそ出して言わないだけで、ある程度頷けるという部分はあると思います。ただ、問題なのは、このような様々な暗い思いが心から出ていても、殆どの人達はそれについて無頓着だということです。だから、自分が苦しんでいるということが分からないのです。
ところで、「9自分に聞いてください」というところで、「自分のために生きる」ということについて、少し触れさせていただきました。ここで、もう一度、「自分のために生きる」さらに、「自分のために自分の持てるものを使っていく」ということについて、語ってみたいと思います。
実は、私の中には、そのような思いが、学びに集う以前よりありました。
「自分が自分に与えた人生は、自分が納得するように生きていきたい」という思いを、何かあるたびに感じてきました。そして、そう思うのはなぜなのか、それはただ単に自分のエゴなのかと考えてきましたが、今は、私の中の切なる思いだったと確信しています。
それは、私の中で、「意識の転回」が起こってきたからです。
土台が変わらなければ、いくら自分のために生きていきたいと思ってみても、それはエゴの中のことに過ぎないでしょう。ただ、手前味噌かもしれませんが、自分のために生きていきたいという思いは、私の中で、ほぼ純粋だったと思っています。その純粋な思いが、今の私を導いてきたと、私は解釈しています。
私は、絶えず、いつも何かを探していました。自分に納得する何かを探していました。この世の常識にとらわれることなく、私が私にしてやりたいことを探し続けてきたから、よかったと振り返っています。
そうかと言って、私は何も特異な生活をしてきたのではありません。ごく普通に日々を過ごしてきました。しかし、今思えば、私の幸せや喜びの基準は、どこか、社会の常識では説明できないところにあるということだったように思います。これまでに、社会の中で、家族の中で、それらを追求していく限界を、私は感じてきたのです。
そこで感じる幸せや喜びには限界があると思ってきました。行き止まりを感じてきました。どうしても、何かが欠けていると感じてしまうのです。しかし、では、どうすればよかったのか、何が欠けていて、では何があればいいのか、ということは、なかなか分かりませんでした。
言うまでもなく、人と人との繋がりの中で、生活は成り立っています。人は、ひとりでは生きていけないということでしょう。しかし、それは、私からすれば、あくまでも表向きの考え方に過ぎないのです。私の本音は、人はひとりだと思っています。そして、それは決して孤独な世界ではないことも段々に分かってきました。人はひとりという本当の意味、そして、喜びが分かってきたのです。
本当の自分の世界を追求していきたい、していこうという思いが、私の中に根強く根深くありました。その思いこそが、自分に納得する生き方であり、自分の中に欠けているものを埋めていくものであり、私が私にしてやりたいことだったんです。学びに集わせていただき、ようやく、その思いが表面に顔を出し、その姿を克明に現してきて、愚かな肉にも感じられるようになった今という時なんです。
「形の世界に、私の求めているものはない」、私の中で、この思いが確立していると言っても、言い過ぎではないと思います。