2016年06月01日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第3回 2.形の世界を本物とする土台


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第3回目の配信です。
今回は「2.形の世界を本物とする土台」、ページ数ではP25~P37までの部分です。

2 形の世界を本物とする土台

「自分の土台とは何なのだろうか。」
「自分の土台を変えるとは、どういうことなのか。」
学びを知らなければ、そのようなことを思うことは、まずないでしょう。
しかし、ここで、あなたも一度、思ってみてください。
まず、その前に、土台というのは、次の二つがあると考えてください。
一つは、目に見えて、耳に聞こえて、触れることができる形の世界が土台となっている場合です。これを仮にAとします。そして、もう一つは、形は何もないけれど、心で感じることができる世界を土台としている場合です。この場合をBとします。
ほとんどすべての人が、今現在、Aの上で生活を営んでいます。特段の意識をすることなく、目に見えて、耳に聞こえる形ある世界を、現実の世界だと思っています。その中で、夫婦や親子をやっています。また、会社の社長や政治家、その他様々な仕事に携わっている人、そうでない人と色々ありますが、みんな、それらをAの上でやっています。
また、私達は、今、現に持っている顔形や身体的特徴から、他人と自分とを区別しています。私達には、それぞれに姓名が付けられています。あの人とこの人は別人です。このように、人間を形ある世界から見る土台の上で、すべてが成り立っています。人間社会とは、そういうものです。すべてAです。
私達は、人間を形としてとらえ、いいえ、人間に限らず、自分の周りのものすべてを形の世界からとらえて、その中で、自分達の幸せと喜びを追求していこうとしてきましたし、その中で、生きる意義、目的、目標を見つけようと一生懸命でした。それは今もそうです。
そして、現代社会において、幸せと喜びを一番端的に表現するものが、お金ということになっています。このAの土台の最大の特徴は、金銭至上主義です。
人は、お金を手にすれば、万事うまくいくと思い込んでいます。だから、お金のために、日々、争いは頻繁に起こり、それが、犯罪や不祥事にまで発展していくことも珍しくありません。
また、主義主張を述べ、正論を唱え、奇麗事を言っても、最終的には、お金をよこせ、いくらくれる、どんな保障をしてくれると、裁判を起こしたりしています。
今はそのような世の中です。結局、すべての問題の中心はお金だと、そろそろみんな気付いておられるだろうと思います。だからといって、お金で何もかも解決するわけではないし、それが全面的にいいとも思っていないかもしれないけれど、やはり、お金については、誰しもが関心があり、今の世の中において、決して、それを無視することはできないということでしょう。
いいえ、無視するどころか、お金こそすべて、金、金、金、お金さえあれば何でも手に入れることができる、幸せになるにはお金が必要だと考えている人が、圧倒的に多いと思います。それが現代人、文明人ということでしょうか。 お自分
もし、お金で買えないものがあるとするならば、真心だとか、人の情けだとかいうものでしょうか。しかし、それさえも、今に至っては危ないかもしれません。そこには、絶対にお金が動かないのでしょうか。
最初は、真心も純粋かもしれません。最初から騙してやろうという思いはなくても、段々に、お金がチラチラと見え隠れしてきたならば、その人達の結びつきは、どうなっていくのでしょうか。「札束に自分の魂は売らない」なんて、カッコイイことを言っても、形を本物とする土台の上では、それは難しいことなのではないかと思います。それどころか、人との結びつきの中には、「金の切れ目が縁の切れ目」を堂々と地で行く場合も、多いと思います。
また、永遠の命も、お金で買えないものです。しかし、お金があれば、救える命があることも事実です。お金がある人は高度な技術の治療を受けることができて、そうでない人はできない、そうなってくると、命の重みでさえも、金次第です。
形ある世界では、どうも、命を救うことや、命拾いをすることに、大きな意義があるようです。従って、命を助けることができなかったりすることを、どうしても暗く受け止めてしまう傾向にあります。
「命あっての物種」この言葉、この思いこそが、形の世界を本物とする土台を物語る極め付けだと思います。
また、形を本物とする世界の、もう一つの特徴として、戦争というものが永遠に続いていくことが、挙げられます。どんなに平和を望み、みんな仲良く豊かにと願い、話し合いの機会を持ち、解決策を模索しても、Aの土台の上では、戦いのエネルギーを消し去ることは、残念ながら不可能です。これは、これまでの人類の歴史がはっきりと物語っています。
尤も、ここで言う戦争とは、何もミサイルや銃などで、一瞬のうちに人命を奪うという、いわゆる戦争だけを指しているのではありません。そもそも、実際に人を殺すから、そこが戦場となっているのではなくて、戦いの場は、人の心の中にあります。相手を非難、攻撃、破壊するエネルギーを、心の中からどんどん流す、それが、意識の世界においては、戦うことを指します。
形を本物とする心の中は、絶えず戦いのエネルギーを流していると言っても言い過ぎではないはずです。
平等を唱えても、形の世界は不平等です。顔形から何から何までみんな同じということはあり得ないし、形だから不ぞろい、色々あっていいのです。色々とあって当たり前で、色々あるから、様々な思いが錯綜して、心の醜さを感じていくことができるのですが、Aの土台からは、そのようにとらえることができません。
この世には、地位、名誉、財産のある人、ない人、元気な人、病弱な人、頭の回転がいい人、そうでない人、そして、姿、形の美醜と色々あります。そして、現実には、みんなAの土台にあるのだから、より幸せになろう、豊かになろう、輝かしい人生を送ろうという願望が、多かれ少なかれみんなの心の中にあります。だから、経済力が豊富で、切れ者で、しかも健康で、美しくというのが幸せの第一条件になるのです。そうなるために、みんな一生懸命努力します。頑張ります。目標達成のために自分の人生を賭けていきます。世の中、おしなべて競争です。
その一方で、生活空間が豊かになればなった分だけ、潤いが削がれていくことを感じる人もあると思います。ゆっくりと人間らしく自分のペースで生きていこうという人も出てきます。
では、人々の欲望が集る都会から離れて、どこか田舎にでも引きこもって、自然とともに生活をすれば、より人間らしい、豊かな潤いのある、安らぎの空間が広がっていくのでしょうか。答えはノーです。そのようなことをしても、心の中の戦いは止めることは絶対にできません。殺伐とした中で生活をしようが、のどかな中で時を刻もうが、結局はその人の心の世界の問題、その人から流れていく波動の世界の問題だからです。その波動の世界が仕事をしていくんです。間違った真っ暗闇の波動を流し続けていれば、やがて、そこに生活をする人達を巻き込んで、とんでもない事件、事故が起こってきます。全く寝耳に水の出来事と受け取られがちですが、そうではありません。原因があって形となって表れてくる現象です。そこに必要だから現象として起こってくるのです。その現象から、私達はそれぞれに本当は学ぶべきものがあるはずなんですが、真実からほど遠くにある私達にとって、そこへ思いを届かせるには、殆ど難しい状態にまでなってしまいました。
なぜ自分が産まれてきたのかとか、人生の本当の目的は何か、自分とはいったい、どんな存在なのか、そして死ねばどうなるのかということを知る由もなく、日々時間を費やしていると言ってもいいと思います。様々な人間模様を描きながら、しかし、いずれは、それぞれの心の世界、それぞれが流す波動の世界が、形になって現れてきます。
人もまばらで、しかし、人情味が厚く緊密な繋がりのある田舎でも、犯罪は起こります。隣に住む人が誰か分からないことも珍しくない大都会において、全く無関心ということも問題があると思いますが、古い風習やしきたりが残っている田舎も閉鎖的で、そういうものに心ががんじがらめという暗さがあります。要するに、どこで生活を営んでも、それらの問題や弊害が、心の闇の部分として噴き出してくるようになっているのです。形を本物とする思いが、間違っているからです。間違いは、いずれ必ず正されます。
また、形あるものを、永遠にそのままの状態で保存しておくことはできません。形あるものは、いずれ崩れ去り、消え去っていくのです。それは、形の世界が虚像の世界だということを、はっきりと指し示しているのではないでしょうか。しかし、そんなことは分かり切ったことであるにも関わらず、人間は、これまで虚像の世界にしがみつき、自分のすべてを費やしていく過ちを犯してきました。なぜなんでしょうか。崩れ去り、消え去る虚像の世界に、刹那的に栄耀栄華を求めてきた、求めていく私達の人間の愚かさ、哀れさを、あなたは感じませんか。あまりにも愚かで、あまりにも哀れ、私は、そのように感じずにはいられません。
ところで、人の心の中の戦いを一番分かりやすい形で示しているのが、やはり、今もどこかで武器弾薬が飛び交って、人があっけなく死んでいく生々しい現実です。そこでは、神の名のもとに正義を振りかざして、人殺しをしています。
何が、聖戦なのだと思いますが、しかし、それが今の人間の心の世界の実態だと、私は思っています。
国と国、民族と民族の争いから、夫婦喧嘩に至るものまで、人間は絶えず、戦いのエネルギーを流し続けています。
互いに主義主張があります。言い分、立場があります。それはみんな心に神、仏、何とかのパワーといった実体のない全く訳の分からないものを握っているからです。しかし、神を信じ、仏の存在を信じ、パワーを信じている人達は、自分の信じている神、仏、パワーは絶対なものだと思っています。自分の心の中を見て、自分の流してきたエネルギーを知っていくことをしない限り、自分が握っているものがどんなものなのかは全く分かりません。自分の中で握っているもの、神、仏、パワーの世界は素晴らしい世界だと大真面目に思い込んでいます。信じ込んでいるんです。だから、大抵は、その心に染みついた世界を離していくことなどできないんです。
私達人間は、自分の心が何を握っているのか、それがどんなエネルギーなのか、どんな実態なのか、全く知らずにきました。
しかし、現実には、心に神、仏、何とかのパワーといった実体のない全く訳の分からないものを握っているので、例えば、利害の異なる両者が、条件付きの譲歩で、何となく和解を成立させたとしても、中はくすぶり続けています。和解したからといって、相手を攻撃するエネルギーは、消えて無くなったわけではありません。まだまだ、相手を攻撃するエネルギーが満ち溢れている中にあります。だから、どんなに幸せになろう、豊かになろうとしても、ひとつに融和することなど無理なことなのです。
それは、今、実際に世間で起こっている事件や事故などによっても、毎日、毎日、私達の目の前に、はっきりと示されています。
そろそろ、おかしい、何かおかしい、みんな狂っているのではないかと気付いてこられてもいいようなものです。しかし、形を中心に据えた土台は、まだまだこんなことくらいでは、崩れ去ることはないのでしょう。それほど堅固な土台を、私達は築いてしまいました。
それもその通りなのですが、揺るぎのない堅固な土台だと思う思いもまた、本当は違っています。その土台は、実は、風の一吹きで、大地の一揺れで、儚くも崩れ去っていく砂上の楼閣なんです。
だから、そのことを、これからの時間をかけて証明していく方向に、粛々と流れていき、確実に、形を本物とする土台は崩れていきます。それを私達は、意識の流れと呼んでいます。この意識の流れを心に感じられる人間に蘇っていきましょうということなんです。

posted by ユーティーエーブック at 16:40| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする