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3 自分の中の自分
人間を形あるものとしてとらえてきた時間は、莫大です。
従って、繰り返しになりますが、「いいえ、違います。私達人間の本当の姿は目に見えないものです」と、このようなことを、いくら言われても、聞かされても、それだけでは、誰も、おいそれとは納得などしないし、できません。
ただ、そうであっても、人は、心の世界という目に見えない世界は確かにある、または、あるかもしれないと思っているのではないでしょうか。なぜならば、自分の中には色々な思いが出てくると、誰しもが感じているからです。
色々なことを思う場所が心だということに、別に異論はないと思います。
そこで、自分の中の自分を知っていくために、この心ということに注目してみましょう。
そもそも、心とは、一般的に、目に見えないものだと理解されています。そして、その心の持ち主は、あなただと言われたら、それは、何となくそうだと思うでしょうし、否定はしないと思います。しかし、心の持ち主は自分であっても、その心そのものが自分であり、自分は心以外の何物でもないということになると、どうでしょうか。心の世界というものはあるにはあるが、その心の世界を抱えている自分が現にここにいます。そして、その自分というのは、例えば、身長がこのくらいで、体重はこのくらいというふうに、誰の目でも確認することができるものと思っています。その誰の目にも確認できる自分が抱えている心の世界は、こんな世界だというのであれば、理解できるけれども、心そのものが自分であり、自分は心以外の何物でもないというところまで、実際は、なかなか行き着かないでしょう。心と自分が、どうしてもイコールで結びつかないのです。なぜならば、心は、目に見えないもの、自分は、目に見えるものだと思っているからです。
そして、心というものは通常、外に向く傾向にあります。自分の思いというものは、管理しない限り外に向いています。大抵の人は、世間の目が気になるし、一人は寂しい、人と社会と何らかの方法で繋がっていたいと思っているでしょう。また反対に、人と接するのが怖くて、自分の現実を見ない、世の中が面白くなく、仮想の世界にのめり込んでいく人達もいます。どちらの場合も心の向け先は自分の外です。
ところで、あなたは自分の心が疲れていると感じたことがありますか。自覚のある人もおられると思いますが、外に向く習性のある心はとかく疲れやすいのです。些細なことで切れる人もいます。また、先ほど一人は寂しい、人と社会と何らかの方法で繋がっていたいと思っていると書きましたが、大抵は、仲間同士、情報を共有して、みんなと大体同じような考え方、思い方であれば、とりあえず安心だということでしょう。中には、時流に乗り遅れないようにと、情報収集、情報交換に、かなりのエネルギーを消費している人もいます。その結果、常に比較対照の中で、心は疲れてしまいます。当然、安らぎたい、癒されたいという欲求が高まってきます。それがうまく発散されなければ、ストレスが重なって、自分の身体や人間関係に悪影響を及ぼすと考えられています。それはそうだと思います。だから、人は安らぎの空間を求め、癒しの何とかを手に入れ、日常から少しでも自分を解き放そうと試みます。いわゆる充電の時間を持って、明日からまた頑張ろうということだと思います。
しかし、それは本当に表面的なことで、そんなことで、自分の心が本当に癒されるわけではないし、安らぐわけでもありません。一時的には癒され、安らぎを感じるかもしれませんが、次の瞬間、また心は外の色々な影響を受けて忙しく動いていくからです。
そこで、外に向いている心を、自分の内に向けてみるということをやってみてはどうでしょうかということなんです。
外に向いている心、それを内に向けるということなんですが、色々なことを思う場所が心だということですから、その心ということに、もっと自分の思いを向けていくんです。自分から吐き出される思いに、注目していくんです。それが心を自分の内に向けるということだと思ってください。
今、自分は何を思っているのか。自分は自分の思いのままをストレートに言葉にしているか、態度に表しているか。それとも、思っていることとは裏腹なことを言っているか、態度で示しているか。まずそういうところをチェックしてみて、もしそうであるならば、何か苦しさを感じないかと自分に尋ねるんです。そうしたとき、「苦しい」とか、「お前は嘘つきだ」とか、そういう思いが出てきたならば、何で自分は苦しいのか、何で嘘つきだと出てくるのかと、また自分の心の中に思いを戻してみるんです。
そもそも、心を自分の内に向けるということがよく分からないのは、心というものは、外に向く習性があるからです。適正な管理をしなければ、心はいつも外に向いています。
とにかく、自分の判断基準は、いつも外です。人の目を通して映る自分に心を向けてしまうのです。自分はどのように見られているか、評価されているかに、大なり小なり関心はあると思います。また、人の心を探ることはあっても、自分の心の中に思いを戻してみるというようなことは、殆どの人はしていません。それでは、自分の中の自分の存在など、知る由もありません。
だから、「心そのものがあなただ」と言われても、ピンとこないし、ましてや、「人間の本当の姿は目に見えない」なんていうことを、俄かに受け入れることなどできません。何を言っているのかと鼻であしらっていくのが関の山です。
反発する人や、無視する人はいても、「はい」と、すぐさま受けていく人は、おそらくいないでしょう。それが通常だと思います。それは、どなたの心の中も、たくさんの過去からの真実を知らない真っ暗な自分がひしめき合っている状態であって、そのたくさんの自分が、一様に、総すかんを食らわしている状態なんですが、心を見るという習慣がなければ、これもまた俄かに納得することなど無理な話です。
その人が、何らかのきっかけで、学びを知っていって、自分なりに学んでこられたならば、つまり自分の心を中に向けて、自分の心を見るという作業を重ねてこられたならば、やがて時が経てば、「そうかもしれない」というふうになってくるかもしれません。しかし、「そうかもしれない」という思いが、「そうだ」となってくるには、それからまた、多くの時間を必要とするのだと思います。
たくさんの過去からの自分は、みんな、Aの土台を築き上げてきたのです。一生懸命に、形ある世界が本物だとする自分の世界を築き上げてきたのです。
それに対して、「私達は意識です。私達はみんな同じです」というメッセージは、せっかく築き上げてきたと思っている自分の世界を崩しなさいというものだから、それには、みんな、徹底抗戦の構えです。なぜならば、自分の世界が崩れるというのは、自分が崩れることになる、我一番の世界が崩れることになるからです。
まず、そのような自分の中の自分と対面して、自分の状態、すなわち、自分の今の実態を心で知っていくことから、始めなければならないのですが、気の遠くなるような長い時間の中で、ずっと自分は肉だとする思いを膨らませてきたので、肉、形を本物とする思いは非常に強いです。みんな、その中で、固まった状態です。
外から、コンコンと木槌で叩いているようでは、埒が明きません。少し、ひびが入っても、すぐに修復しようとします。そういう点においては、機敏に反応していきます。形ある世界を本物だとして、その世界にしがみついている思いは、形が崩れていくことに、最も怯えます。
そして、「何も聞きたくない。私はこれでいい。この中がいいのだ。誰がここの主を譲るものか」となかなか、その中から出てこようとはしません。しかし、私は神、私は一番と偉そうにしても、所詮は井の中の蛙なんです。
しかも、その塊が何かの拍子で溶け始めると、今度は、この世の常識とかそういったものは、完全に、度外視していきます。今まで、閉じ込めてきた、そして抑えてきた、私は神だから、何を言っても何をやっても許されるといった中の思い、つまり、我に従えの思いが、一気に表面化してきて奇妙な行動を起こしていきます。考えられないようなことを起こしていきます。それは、肉で固まった常識の側からは、全く説明がつかないような事態になってきます。訳の分からない、意味不明な言動に、おそらく当の本人ですら戸惑っているというのが本当のところなのかもしれません。それは、自分がつかんできたブラックのエネルギーに操られているに過ぎないということなんですが、と言って、自分以外の誰かに操られているのではないんです。みんな自分なんです。しかし、このみんな自分だということが分からなくて、得体のしれないものに振り回されていると、当の本人も、そして周りの人達も思い込んでいるんです。このように、肉で固まった人が、ある条件、環境に誘発されて、何の準備もなく崩れ始めたとき、その対処方法を学んでいなければ、一言で言えば、狂った状態を露にしてくるのです。いわゆるその状態は、自分の中を制御する正しい羅針盤的なるものを見失った状態です。
そして、それを見た人、聞いた人、関係した人の中に、それは、自分達の世界のことかもしれないと思う人、または、自分も同じだと実感する人が、いったい、どのくらい、いるのでしょうか。大抵は、まだまだ肉で凝り固まった状態ですから、「あの人と自分は」と区別していきます。それはあの人の世界のことであり、私には関係がない、あの人と私が同じだなんて考えられない、私にはきちんと自分を制御できる理性も知性もあると、大体このような具合でしょうか。
とは言うものの、果たしてどうでしょうか。今は、自分は自分をきちんと制御していると思っていても、どんな人も、肉のたがが外れて、中の思いが一気に噴き出してくるといったことが、全くないとは言えないと思います。
ということを踏まえて、「自分の心の中には、優しいところもあるが、その反面、悪魔か鬼のような部分もある」ということについて、自分の心の中を少し覗いてみてください。自分の中の自分というものを思ってみてください。みんな、大なり小なり、自分の二面性ということについて、何となくそうだなあと感じていると思います。しかし、自分の中に、たくさんの自分がいて、そのたくさんの自分とともに、今まさに私は存在していると、はっきりと心で感じているかということになれば、どうでしょうか。
たとえば、あなたは、過去世や来世ということを聞いたことがあるでしょうか。世の中には、人は生まれ変わるということを信じて、自分の過去世や来世を語る人もあります。しかし、そういう人達も、私はこの時代に生きてきた、あの時代にはこうだった、私の来世はこうなんだと語るだけで、自分の過去世や来世とともに、今、まさに今、生きているとは思ってもいないのではないでしょうか。
また、仮に、自分は色々な顔を持っていて、そのどれもが自分だと自覚している人であっても、大抵は、そのような鬼か蛇か悪魔のような自分は、人知れず心の奥深くに留めておいて、外見だけを取り繕っていこうとするでしょう。別に特に善人ぶることはないけれど、誰も好き好んで、自分の評判は落としたくはありません。やはり、いい人というか、気配り、配慮があって、人当たりのいい人、物分りのいい人、そのような人でありたいと思います。
そうやって、世間を渡っていく術を心得て、それが上手な人は、世渡りのうまい人となって、結構、おもしろおかしく生活していけるかもしれません。
しかし、本来は、そこに留まっていてはダメなのです。周りと無用なトラブルを起こすことはないけれど、鬼か蛇か悪魔のような自分を、しっかりと自分の中で確認しなければなりません。その作業が、外に向く習性のある心を自分の内に向けていく作業なんです。世間を渡っていく術は程々でいいんです。世渡り上手にならなくても、自分の中の自分と上手に付き合っていく術を習得してください。そして、自分の中の自分を充分に確認したうえで、夫や妻や、親や子の役を演じていけばいいのだと思います。
自分の中の自分と上手に付き合う術を心得て、そして、それぞれの役を演じていることが、はっきりと自分の中で浮き彫りになってくれば、その人が醸し出すものは、おそらく本当の意味で、いい人なのだと思います。変に媚びずに、素直で、優しい、自分の中の自分が自然体で出てきます。
鬼か蛇か悪魔のような自分の中の自分も、温もりを通過して出てくるので、正真正銘のそれにはなりません。ということは、鬼か蛇か悪魔のような自分は、特に縛り付けなくても、抑え込まなくても、あえてトラブルを起こすようなことにはならないと思います。生きる意味、生きる目的が自分の中で分かってきたら、無用なトラブルを起こして、無駄な時間とエネルギーを費やしていく時間がないと分かってくるからです。
また、夫だから、妻だから、親だから、子供だからと、ことさらに強調しなくても、相互扶助の中で生活していくことなど、簡単なことなのです。
自分の中のたくさんの自分を抑え込んで、自分は立派、私は正しいをいくらやってみても、その立派で正しい自分というものは、所詮は井の中の蛙だったんだ、ちっぽけな世界の主にしか過ぎなかったと、私はそう心で納得です。