2016年06月09日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第9回 8.幸せを感じたいなら……


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第9回目の配信です。
今回は「8.幸せを感じたいなら……」、ページ数ではP77~P82までの部分です。


8 幸せを感じたいなら……

財力、権力、知力を手にしても、決して本当の世界とは巡り合えないことを、自ら気付いていかなければなりません。
それどころか、それらを手にすればするほど、全く逆方向に生きてしまう、本当の世界から遠ざかってしまうことにも、遅かれ早かれ気付いていかなければならないでしょう。
自らを地獄に突き落としてきた私達は、あまりにも愚かで悲しかったと、しみじみ思い及ぶことができたときに初めて、肉体という形を用意してきた私達ほど、幸せな存在はないと、つくづく思い知ることができるのだと思います。
それは、一見、矛盾しているようですが、分かってしまえば、理路整然としています。
幸せを求めて、生きる喜びを求めて、日々頑張っている私達が、なぜ自らを不幸にしてしまうのか、なぜ自ら破滅の道を選んでいくのか、誰にも解き明かせなかった疑問だったと思います。
「何が破滅なものか。私は、これだけ幸せだ。これだけのものを手に入れて、今、まさに、我が世の春を満喫している」。しかし、有体に言えば、自分自身を知らないままで、生まれて死んでいく人に、我が世の春はあり得ないことだと思います。
その人から流れ出るものを感じることができれば、それは歴然としています。
語る言葉ではなくて、その人から醸し出されるものです。それを波動と言いますが、その波動が、その人を一番適切に物語っているのです。
言葉や態度ではなくて、波動がその人を物語るというのは、私達人間は、意識、エネルギー、目に見えない存在だから、それは当たり前のことなんです。しかし、形の世界しか信じない人には、それは分かりづらいことです。言葉や態度ならば分かります。分かりやすいんです。だから、どうしてもそれらを重視します。そこにとらわれていきます。そしてその結果、騙した、騙された、裏切られた、裏切者と苦しみを膨らませていきます。
言葉や態度はいくらでも騙せるんです。誤魔化せます。二枚舌とか、玉虫色の表現とか言われるように、状況如何によって、言葉も態度も変化させていくことは、決して珍しいことではありません。しかし、波動の世界は違います。波動は騙せません。誤魔化せません。だから、物事を波動としてとらえていけば、おもしろいです。言うこととすることと、そして、腹の中で思っていることが合致していない場合があるのが分かるからです。
ところで、私達人間にはみんな、幸せになりたいという思いがあると思います。強弱は別として、幸せになりたいから祈ってきた、それは分かると思います。幸せになりたいと願いを込めてきた、これも分かると思います。そして、すべての頂点に立ちたかった、すべてを支配したかったから、闘い続けてきた、これはどうでしょうか。よく自分の心を見てください。自分の出す思いを振り返ってください。闘い続けてきた歴史が、自分の中に眠っていると感じませんか。
そして、私達は、その結果、今、どうなのでしょうか。
今、心の底から、幸せだと言える人が、どれくらいいるのでしょうか。何々があるから幸せだというのではなくて、何もなくても幸せだという心境とはどんな心境なのか、あなたは自分の心で分かっていますか。
そして、祈り続け、願いをかけて、戦い抜いてきたことが愚かであったことに、いったい、どれくらいの人が、自分の心で気付いているのでしょうか。
その気付きもないままに、だからこそ、私達人間は、今もなお祈り続け、願い続け、戦い続けている中にあるということだと思います。
本当の幸せを感じたいなら、祈りをやめることです。戦いをやめることです。しかし、やってみられたらお分かりになると思いますが、それは不可能なことです。
「祈り続けるエネルギー、そして、戦い続けるエネルギーを、私は、この心からどんどん垂れ流してきました。そして、このエネルギーこそ、自分を苦しみの奥底に突き落としていました。自分を自分で暗闇の底へ葬ったのです。いいえ、単に自分だけではなくて、私はこの真っ黒なヘドロのようなエネルギーを周囲に放射してきた愚か者でした。」
このように、本当に自分の心で気付くまで、祈りの波動は流れ、戦いの波動は心の中を覆い尽くしていくのです。

posted by ユーティーエーブック at 09:00| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月08日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第8回 7.自分にこよなく愛され、許されて、今がある


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第8回目の配信です。
今回は「7.自分にこよなく愛され、許されて、今がある」、ページ数ではP71~P76までの部分です。


7 自分にこよなく愛され、許されて、今がある

「自分にこよなく愛され、許されて、今がある」ということも、実は、形の世界を本物としていては、なかなか理解することはできません。
「自分に愛され、許されている」ということを忘れ去って、そして、知らずにきたのが私達人間だから、苦労して、頑張ってきた人ほど、自分(肉の自分)でやってきた、自分(肉の自分)の力でやってきた、生きてきた、頑張ってきたという思いは強いと思います。
中には、「私達は、愛され、許され、生かされているのですよ、感謝、感謝です」という人達もおられるようですが、そこから流れてくる波動は、多分に宗教臭いです。その人達も、まさか「自分に」愛されている、許されている、生かされているとは理解されていないと思います。自分を愛し、許し、生かすものが自分の中にあるなんて、思ってもいないでしょう。
結局は、感謝、感謝と言いながら、その人達もまた、自分(肉の自分)で生きてきた、自分(肉の自分)の力でやってきた、頑張ってきたと語る人達と変わらないのです。世間では、自力と他力という言葉で、区別しているようですが、その両者は、根っこが同じなのです。
「自分に愛されている、許されている、生かされている」というところの「自分」を知らない心、自分を愛し、許し、生かす「自分」を信じない心が、いわゆる他力の心です。その他力の心が根っこにあるという点で同じなんです。
人間は、目に見える自分(肉の自分)を自分だと思い込んでいるから、当然、その肉の自分のために、努力して、頑張っていきます。
そして、肉の自分が幸せだと感じることや思うこと、嬉しい楽しいと感じることや思うことが、それがそっくりそのまま自分の幸せと喜びに繋がっていくことを信じています。信じているというよりも、それしか知らないのです。肉の自分が今、心で感じている喜びとか、幸せとか、楽しさとかしか知らないのです。
では、他に喜びとか幸せとかがあるのかと言えば、あるのです。
それも肉の自分が今、心で感じているそれらとは、「月とすっぽん」の違いがあります。
それは、「本当の自分との出会い」がもたらす喜びと幸せです。
しかも、肉の自分が心に感じる喜びとか幸せは、そうそう長続きはしないけれど、こちらの喜びと幸せは、実に永遠に続いていくのです。
ただし、目に見える自分を自分だと思っていては、絶対に、本当の自分には出会えません。いいえ、出会えているんだけれど、出会えないように遮ってしまっているということでしょう。そして、そうしているのは、他ならない自分なんです。自分が邪魔をしているのです。目に見える世界しか信じようとしない思いが、本当の自分との出会いを遮り、邪魔をしているのです。
そこで、こう思いませんか。
「本当の自分と出会えない間は、偽りの自分しか知らないということか。それならば、その自分が味わっている喜びと幸せもまた偽りなのか。そして、それならば、本当の自分と出会って味わう喜びと幸せとは、一体どういうものだろうか。ぜひ味わってみたい。」
ということで、本当の自分との出会いを現実のものとしていくためには、その行く手を阻む偽りの自分を、まず、しっかりと認識していく必要があります。
その遮って邪魔をしている自分を知っていくために、「心を見る」という作業をしていきましょう。しかし、その作業は困難を極めます。形の世界を本物と思う土台を崩すことは難しいと痛切に感じていきます。しかし、投げ出さないでやっていきましょう。そうすれば、ようやく、どれだけ反省をしても、土台が切り替わらない限り、ダメだということが分かってきます。だから、やり続けていく以外にないと結論が出てきます。それ以外に、自分を知っていく手立てはないと分かってきます。自分を知らずして、本当のこと、本当の世界は見えてこないことが、それぞれの心で感じてくるのです。
だから、困難を極める作業であっても、遅々として進まない作業であっても、その中にこそ、真の喜びと幸せがあるんだという思いが、段々に確信となって、自分の心の中に響き伝わってくるんです。そうなってくれば、苦しみながらも、自分の中からふつふつと湧き起こってくるこれだ、これだという思いが現実のものとなっていく手ごたえが、さらに自分の背なかを押してくれます。つまり、自分を自分が引導していることを感じながら、次の一歩を踏み出そうとしていくのです。心を見て、そして正しい瞑想を重ねていく確かな喜びの人生が、自分の目の前に広がっていくでしょう。
それは、ひとえに、自分にこよなく愛され、許されて今があるという確かな証拠です。

posted by ユーティーエーブック at 09:37| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月05日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第7回 6.間違いだらけの人生



「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第7回目の配信です。
今回は「6.間違いだらけの人生」、ページ数ではP67~P70までの部分です。


6 間違いだらけの人生

「みんな、間違いだらけの人生を歩んできました。」
一言、このように発すれば、
「どこがどう間違っているのだ。」
瞬間的に反発する人達もあるでしょう。それはもう一瞬にして反発してきます。
「私は、それなりに生きてきた」、あるいは「正しく生きてきた」、もっと言う人は「立派に生きてきた」と、堂々と語るでしょう。そう思っている、また、そう語っている意識の世界が真っ黒なんだ、だから間違いだらけの人生なんだと言っても、学びのレベルが低ければ、そこのところが、ピシッと自分の中に響いてこないと思います。
「確かに、間違いは山ほどしてきた、間違いだらけの人生だった、こんな私がここまでよく生かされたものだ。」
口でそう語り、また、本当にそのように思っていたとしても、その人の土台が、形の世界が本物だとするところにあるならば、その土台の上で、ここは間違っていた、ここは正しかったと、判断しているに過ぎません。しかし、本来は、そんな判断などどうでもいいのです。土台自体が間違っているのだから、その上で、正しい、正しくないというのは、大きな意味をなさないです。しかし、肉が土台であれば、そういうところにこだわっていきます。そんなところに無駄な時間とエネルギーを傾けないで、さらりとかわすくらいでいいのではないでしょうかと言いたいです。それよりも、もっと、あなたの時間をかけ、エネルギーを注いでいかなければならないことがあると気付いてください。
また、こんなにバカな私だったという思いを込めて、よく、苦労話をする人達がおられるようですが、本当はご自分のこと、そんなにバカだとは思っていないと思います。第一、バカだという本当の意味が、その人達には分かっていないのではないでしょうか。だから、その人達からは、バカだ、愚かだと言いながら、むしろ、よくここまでやってくることができたものだと、己というものをグッと前に突き出している波動が流れているのです。土台が肉であれば、それは当たり前のことです。
間違いだらけの人生というのは、そういうことではないのです。
形の世界を本物だと思っているその思いが、間違っているということです。それは意識の世界から見れば、真っ暗な思いなんです。自分の本質を間違ってとらえるところからは、どんなに流暢に話をしても、そして、分かる、分かると相手を頷かせる話術があっても、そこからは明るい思いは流れません。
私達は、本来は、明るくて、優しくて、温かくて、柔らかな中にあったのに、肉体という形を持ったがゆえに、その形の世界を本物だとする思いをどんどん膨らませていき、自分を自分で真っ黒にしてしまったのです。真っ黒に正しくも正しくないもありません。そこのところが、なかなか理解できないのです。しかし、真っ黒は真っ黒です。だから、みんな、間違いだらけの人生を歩いてきたのです。

posted by ユーティーエーブック at 09:21| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月04日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第6回 5.間違っているものは、いずれ音を立てて崩れていきますが……


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第6回目の配信です。
今回は「5.間違っているものは、いずれ音を立てて崩れていきますが……」、ページ数ではP61~P65までの部分です。


5 間違っているものは、いずれ音を立てて崩れていきますが、今世はその手始めと思ってください

間違っているものが、いつまでも大手を振ってはいられません。最初は少しずつ、少しずつですが、ある時にドーンと崩れて、やがて、その方向を変えていくか、あるいは、崩れたまま、深い闇の中に沈み込んでいくかです。
まず、今世はその手始めだと考えていただいていいと思います。非常に大きな分岐点です。だから、少しずつ、間違いに気付いた人から、自分の軌道修正に取り組んでいくようになっています。その取り組み方法を、私達は、学んでまいりました。
長い間、間違い続けてきたことに気付けなかった私達に、今世、初めて、「真実はこうですよ、みんな間違ってきたのですよ」と伝えにきてくれた人がいました。
そして、その一方で、私達は、自分の間違いに気付いて、今度こそやり直そうと強く決意して生まれてきたということでした。
この二点は確かなことですが、堅固な土台を崩す作業には、最初は時間を要します。
間違い続けてきた長い、長い時間があります。今世の僅かな時間の間に、真実が広く流布することは、はっきり申し上げて難しいです。私達は、あまりにも、真実の世界と遠くにかけ離れてしまっているからです。
最初は要作りでした。しっかりとした中心棒が必要でした。要がぐらついているようでは、本当のことも、真っすぐに伝わっていきません。
手始めの今世には、まず、意識の目覚めがあって、その中心部分を作るというか、育てる時間が必要でした。そのように準備を万全に整えて、そして、これから、二百五十年、三百年をかけて、ドーンと崩れていく時を迎えるのです。ドーンと崩れていく時、すなわち、喜び、喜びの時を迎えるという計画です。
このように、今世は中心部分を確実に作るという意味がありますから、浅く広く流布する必要性はないということで、学びが飛躍的に広がっていくとはならないでしょう。しかし、真実は、人から人へ、心臓が鼓動するように伝わっていきます。愛のエネルギーは、確実に流れています。だから、本当に学ぶべき人達が、学びに集って、そして、ともに進んでいこうという呼び掛けに力強く呼応していくようになっていけばそれでいいんです。
学びは宗教ではないだから、人をむやみやたらと集める必要はありません。浅く広く流布していくこと、つまり、ただ単に、人を集めるのは簡単かもしれません。いいえ、簡単でしょう。欲心を刺激していけば、また、興味心を突っつけば、何の造作もなく、人は集まってくるだろうし、もちろん、お金も吸い寄せることはできると思います。しかし、それでは、過去と同じ轍を踏んでいくことになります。根本的な誤りを正さずに、つまり、「意識の転回」をせずに、目に見えない世界を求めていった結果、どうなっていったのかは、私の心はよく知っています。それは、皆さんも同じだと思います。おそらく、私達の心の中には、過去に苦い経験が山ほどあり、人集め、金集めで、我が身を滅ぼす悲惨さをいやというほど、味わってきたのでしょう。だからこそ、こうして、真実の世界を学ぶということで、みんな色々なルートで集ってきているのではないでしょうか。
今世は、大きな流れの分岐点です。私自身、今世は正念場だという思いを持って、この世に出てきました。
そして、学びを進めていく中で、過去の経験を教訓にしていかなければならないことを、ヒシヒシと感じてきました。
そして、意識の流れは粛々として仕事をなしている、愛のエネルギーが仕事をするんだということですから、間違いは必ず正される、時を待てばいいと感じています。もちろん、自分の中をしっかりと見て、意識の流れを心に感じていく方向に、日々学んでいくことは言うまでもないことです。
今世は要作り、このことを、今一度、それぞれの心で確認してください。
あなたの意識の世界の要を、今世の時間の中でしっかりと作り上げてください。あなたの意識の世界にとって、今世の出会いは、千載一遇のチャンスだと知ってください。



posted by ユーティーエーブック at 10:07| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月03日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第5回 4.他力のエネルギーが染み付いています


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第5回目の配信です。
今回は「4.他力のエネルギーが染み付いています」、ページ数ではP53~P60までの部分です。

4 他力のエネルギーが染み付いています

他力のエネルギーとは一体何だと思いますか。自分を肉だとしてきた私達人間は、誰一人例外なく、他力のエネルギーの中にがんじがらめの状態です。神、仏、宇宙のパワーが好きだという人はもちろんですが、それらを敬遠する人もまた、実は、心の中に神、仏、宇宙のパワーといった他力のエネルギーを充満させているのです。私達人間には、遠い昔から、そういった他力のエネルギーを貪欲に求めてきた歴史があります。
そこで考えてみてください。日常的に、拝んだり祭ったり、祈ったりということがない人であっても、心の拠り所、心の支えとして何かを持っていませんか。
昨今は、日本の国でも、宗教の世界が関係するおぞましい事件なども起こっています。そういう影響からか、神や仏や、宇宙のパワー、そして、宗教と言うと、敬遠したり、警戒したり、胡散臭そうにしたりする風潮にあるかもしれませんが、あなたがもし、有形、無形に関わらずに、心の拠り所、心の支えとして、何かを持っているならば、それは立派な宗教です。そして、実は、そういうものは、日常生活と密着している部分がかなりあります。心の拠り所、心の支え、あるいは、慰め、癒し、そういうものとともに、日々の生活があって、それらが、自然に生活の中に溶け込んでいる場合が多々あります。あまりにも、生活に密着しているので、そういうことは、宗教だとは思っていないかもしれません。例えば、音楽なども、心の向け方如何では、それに属すると思います。音楽によって、心が癒されると思うその思いが、他力のエネルギーと深く結びついていくきらいがあります。もちろん、音楽だけではありません。自分の外に何かを求めて、それに没頭していく自分の心をしっかりと見なければ、他力のエネルギーにがんじがらめだという自分の実態が浮き上がってこないんです。ただ単に心が安らぐ、和らぐ、癒されるだけではないと思います。音楽にパワーを求める心、あなたの中に根付いていませんか。
また、生まれついた土地柄、場所においては、拝んだり祭ったり、祈ったりすることが、日常的になっているという人達においては、それを生活習慣としてとらえて、宗教だという感覚はないかもしれません。
どちらにしましても、人はみんな宗教の世界、いわゆる他力のエネルギーを心に秘めてきました。それは、自分の本当の姿を知らずにきたから当然そうなんです。限りない転生の中で、他力のエネルギーを蓄えてきたのが私達人間です。その人に自覚があるかないかだけであって、みんな神、仏の世界を求めて、パワーを求めて、転生を繰り返してきたことは、事実です。
にもかかわらず、今現在、宗教の好きな人、興味のある人がいる一方で、嫌う人、全く興味を示さない人が、実際にあるのはどうしてでしょうか。
確かに、神、神の子、意識の世界、波動の世界という表現は、どうしても非日常的なものに感じる人は多いでしょう。
目に見えない世界、心で感じる世界というのは、大抵の人達は、二の足を踏むのではないでしょうか。一般的に、後ずさりするような感じを持たれる傾向にあるかもしれません。神や仏や宇宙のパワーを好む人も多いけれども、宗教の世界というと、即座に否定、敬遠される人も、また、多いかと思うのです。
私自身も、この学びのことを、耳で聞いていただけの時は、宗教だと思ってきました。だから、足を踏み入れることを拒絶してきたと言ってもいいと思います。拒絶するということは、それだけ神や仏や諸々のパワーを、過去において求めてきたからだったと、学びの時間を振り返れば、今はそのように納得できます。
今現在の学びでは、意識の世界とか、波動の世界とかというような表現になっているので、まだ入りやすいかもしれませんが、私が学び始めた頃は、神とか神の子という表現をしていましたので、自分の中で距離があったことは確かでした。
ところで、宗教の世界に、のめり込む人、何らかの関心を示す人よりも、反対に無関心な人、あるいは無神論者だとする人のほうが、他力のエネルギーが弱いのかと言えば、必ずしもそうではないと思います。
「宗教とは無縁だ。私はそのような世界に入りたくない」と頑なに拒絶する心からも、実際は、祈りのエネルギーが流れ出している、流れ続けているのです。
実は、そういう人達の中に心が敏感な人がいるのです。だから、本当は、そういう人達こそ、日々の生活から少し距離を置いて、ゆったりと自分を振り返る時間を持たれたらいいのではないかと思います。
案外、なぜ拒絶してきたかということを心で感じてこられたら、今度は逆に、どんどん目に見えない世界に、本当の意味で真実の方向へ自分を誘っていかれるかもしれません。
ただ、私達は、それぞれに、仕事、家事、子育て、学業、趣味、介護等々、日々の生活に追われています。その中で、自分の生活パターンを変えることは、なかなか難しいです。慌ただしく過ぎ去っていく時間の中で、束の間の安らぎや幸せを求めていくことに明け暮れる毎日だと思います。
第一、自分を振り返るという意味がなかなか分からないと思います。だから、たとえ、振り返ってみても、生まれてから今日までです。それで、何とか、自分の人生の帳尻を合わせていこうとします。自分が求め、そして、自分の中に蓄えてきた他力のエネルギーをそのままにして、帳尻を合わすことなど本当のところはできないけれど、幾重にも他力のエネルギーが染み付いてしまっているから、その中で、何とか、その瞬間、瞬間を生きていこうとすることで、精一杯なのだと思います。
今現在、占いや呪いや、その他、精神世界について興味がある人もいます。神、仏の存在を信じ一生懸命祈りを捧げ、加護を求めている人もいます。いいえ、そういうものはどうでもよく、ただ金、金の生活に忙しい人も多いでしょう。人様々ですが、その区別なく、誰もがみんな、他力のエネルギーの中に沈んでいると言っていいと思います。
そのエネルギーを、本来の喜びのエネルギー、パワーに変えていくことが、私達のこれからしていくべき仕事です。自分の中で染み付いてしまった他力のエネルギーを、どのように変えていくのか、大きな課題を残しています。もちろん、肉が自分だと思っている人間の力など非力です。そんな非力な力をどんなに束ね併せても、課題をクリアすることはできないけれど、その一人ひとりが、自分の中の愛のエネルギーに目覚め、それをどんどん流していけばいいということも分かっています。そして、そういう方向に、今、粛々と仕事がなされていると付け加えておきます。
どうぞ、あなたもその中の一人となっていけるように、自分の中に染み付いてしまった他力のエネルギーをしっかりと確認してください。そして、自分の間違いに気付き、自分の本来するべき仕事をしてください。他力のエネルギーはみんな、愛のエネルギーに変えていけるパワーが自分の中に眠っていることに、一日も早く気付いてください。

posted by ユーティーエーブック at 14:28| 奈良 ☀| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする