2016年06月16日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第14回 13.母を通して


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第14回目の配信です。
今回は「13.母を通して」、ページ数ではP105~P113までの部分です。


13 母を通して

さて、私という事例を挙げて話を進めることにしていますので、まず、私は、母を語ってみることにします。
私は母が苦手でした。苦手と言っても、私を産んでくれた母親を単に嫌ってきたということとは、少し違います。
母は、世間の常識からすれば、まず合格点の母親だと思います。決して、不良な母親ではありません。私には、母を嫌う理由がありませんでした。母から、特に不都合なことを受けた覚えはありません。例えば、家族を顧みないで自分勝手な行動をする、いわゆる自己中心的な母親のとばっちりを受けてきたとか、今よくある虐待を受けたとかは一切なかったし、特に教育ママでも放任主義でもなかったので、母親に対して、特に何か不平不満があったわけでもありませんでした。
しかし、私は、母が苦手でした。母の目が苦手だった、母の目を嫌ってきたと言ったほうが、正解かもしれません。
母が苦手だったというのは、母親が特別に何かを言ったから、特別に何かをしたからというのではなく、あくまでも私の側の問題なんだということは、薄々感じてきました。
私は、自分と母との間に、部厚い壁があるのを、ずっと感じていたのです。いつも私は、「母は、目で私を支配している」と思ってきました。そして、その目と出会うたびに、「私は、あんたとは違う」と、私の心は返していたのです。その心はとても冷たく、聳え立ちの心でした。私は、母の領域に組み込まれることを極端に嫌い、避けてきました。特にどうとかいう母親ではないのに、なぜ、このような思いになるのかが、私には全く分かりませんでした。これが学びに集う前の私の思いでした。
そして、時を経て、母が苦手だった私が、「母親に使ってきた思いを見なさい、母親を思ってごらん」という学びの門を叩くようになりました。いいえ、叩かざるを得ない状況に、自らを追い込んでいったのです。そして、学びの門を叩き、自分なりに学ばせていただく中において、自分の中の態勢が整えられていたことを、私自身の心で知るようになりました。
それは、母が苦手だった私が、その母と向き合って、自分を見させてもらおう、私を産んでくれた母を丸ごと、そして、それは同時に私自身の愚かな部分を、みんな自分の心で全面的に受け入れていこう、ようやく、そのように思える私になっていこうとしていたということでした。叩かざるを得ない状況に、自らを追い込んでいったということは、そういうことだったんだと納得でした。
だから、学びの過程において、母に向けて、そして、周りの人達に向けて、自分の出す思いがどれだけ凄まじかったかということを確認できても、私は、それで落ち込むということは、ただの一度もありませんでした。落ち込むどころか、さもありなんと、心に上がってくるものは、納得と喜びだけでした。凄まじい思いと出会うことが、喜びであり、そのために、今という時間を用意してきたことを、はっきりと知るようになったからです。
私を産んでくれた母親に対しては、思いがストレートに出ます。母親の反省の初期段階で、ノートに書きなぐった思いは、どれもこれもみんな自分を中心に据えての思いばかりでした。母親は、何々してくれて当たり前の人でした。だから、してくれたことよりも、してくれなかったことに対しての思いだけが、膨大に膨らんでいきました。それは、まさに、私が、他力の神々に対して使ってきた思いと、何ら変わるところはないと実感してきました。
ノートに書きなぐった思いは、やがて、自分の肉体を通して、エネルギーとして表現されていきました。
口から出る言葉は、「死ね、死ね」の連続で、どこまで、この「死ね」が続いていくのかと思うほどでした。
私は、母を通して、自分の中に溜め込んできたエネルギーを、セミナー会場で存分に出させていただきました。感じさせていただいたのです。これほど幸せなことはなかったです。それで確認できたことは、私を産んでくれた今世の母親は、私自身が心に溜め込んできたこととは、何の関係もなかったということでした。母親という人は、私自身が心にずっと溜め込んできたブラックのエネルギーを出す引き金に、ただなってくれているんだと思いました。
「母が何かを言ったから、何かをしたからではなかった。」
「母に思いをぶつけても仕方がなかった。」
「母の目が厳しいのではなくて、その目を見る私の思いが素直ではなかった。」
母を疎ましく思う自分が違っていたのでした。その自分が真っ黒だったのです。そして、その真っ黒な自分を知っていくために、親と子の縁を結ばせていただいた事実と、私を産んでくれた、私に肉という形をくれたという事実だけが、最終的に、大きく私の中に広がっていきました。さらに、自分のエネルギーを感じていけばいくほどに、それらの事実が、どうしようもなく、ありがたいものになっていきました。
母と子、私達の今世の繋がりは確かにそうです。母と私は血が繋がっています。血の繋がりよりも、もっと強い繋がりがあるのかどうなのか、定かではありません。
私が、ここで言いたいのは、繋がりが強いからどうということではなくて、本当に意識の世界の波動を感じてくれば、こうして、今、私達は肉体を持って繋がっているのだから、その繋がりの中で、人としてのやるべきことは、きちんとするという方向に、肉は自然になっていくということです。必ずそうなっていきます。
私は、ただ単なる親と子の扶養関係から、老いていく母親を看ていくのではありません。そんなことは、一人の人間としての最低のルールだと思っています。と同時に、やはり、真実の世界を心で知った喜びによって、自然に人は、そのようになっていくのだと思います。
ところで、昨今のニュースを見聞きしていて、私が一番やるせない思いを感じるのは、その最低のルールも守られないことです。なぜ、年端もいかない我が子を邪険にするのか、反対に、年齢を重ねて思慮分別もあるのに、なぜ、自分の年老いた親を邪険にするのか、その他、私には、理解に苦しむ部分が多々あります。もちろん、一方では、そのようなことは、今世だけの繋がりの親とか子とか、夫とか妻だけでなく、ずっと過去から引きずっているものがあって、様々な惨たらしい事件が起きているということは、百も承知しています。そういう繋がりの中から、その人達は、自分の心を見ていかなければならないということも、承知しています。
そして、そのような心の闇がボンボンと噴き出してくる時を迎えていることを、きちんと自分の中で把握できない限り、またもや、心の闇に振り回されて、人間関係のドロドロとした中に、ただ自分を沈めていくだけの結果となっていくことは、様々な事件を通して、はっきりと示されています。それは分かっていても、何で、我が子を虐待できるのか、殺すことができるのかと思ってしまいます。その他のこともそうです。何で、そんなことができるのかと、それらのニュースに接するたびに、何か悲しい気がします。
今は、自分のエゴと欲と無知で、我が子を虐待したり、殺す母親が続出する時代となり、また、自分を産んで育ててくれた親を、邪険にしたり、死に追いやっていく時代となってしまいました。親子だけではなくて、夫婦でも友達でも、気に入らなければ、簡単に殺します。社会は何も自分のことを分かってくれないと、自分の中のうっ憤を、面識のない人達に向けて簡単に吐き出していきます。危害を加えても、平然としています。
お金に狂い、欲にまみれた中で、そして、自己中心的な暴走エネルギーの犠牲となっていく命を思うとき、ここまで、人の心は失墜しているのかと感じざるを得ません。
もちろん、殺されたり邪険にされたりするには、されるだけの理由があります。加害者だけが責められるものではなく、そこには確かに因果関係があります。
しかし、今は、あまりにもその手口が残忍です。そういう意味で、心に巣食っている闇の深さを、感じています。まさに、もうどうにも止まらない勢いで、狂いに狂ったエネルギーの噴き出しが日常茶飯事に起こってくる時代にすでに突入しているということでしょう。
危険ドラッグの問題もそうです。そして、日本の国では、まだ無差別テロが身近に感じられないかもしれませんが、近い将来、その脅威は大いにあると思います。

posted by ユーティーエーブック at 09:25| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月15日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第13回 12.真の意味で、強い人間でないと、真実を追求していくことなどできません


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第13回目の配信です。
今回は「12.真の意味で、強い人間でないと、真実を追求していくことなどできません」、ページ数ではP99~P103までの部分です。

12 真の意味で、強い人間でないと、真実を追究していくことなどできません

強い人間というのは、自分の本質が何であるのか、そこのところから目を逸らさずに、信じて、信じて、信じ切っていこうとする思いが、心の中から、マグマのように湧き出てくるまで、自分と真向かいになれる人を言います。豪傑ということではありません。
一方、弱い人間というのは、単に気が弱いとか、気は弱いけれど優しいとか、そういうことではなくて、自分自身を信じ切ることができない人を指します。自分を自分で見限る冷酷さが、弱い人間には分からないのです。
弱い人間は、気が弱いから、ダメだ、ダメだと落ち込んでいくのではなくて、自分を信じ切る信が弱くて、自分に冷酷無慈悲だから、ダメだ、ダメだと、自ら地獄の中に落ちていくことを選ぶのです。
優しさは厳しさです。厳しさは愛です。自分に対する絶大なる信頼のもとに、自分の中の愛が育まれていくのだと思います。
自分に対する絶大なる信頼、その絆を深めていくことが、これからさらに望まれることだと、私は理解しています。
自分を見つめるために、生まれてきました。肉体を持つことは絶対に必要でした。自分を掲げるために、肉体を使うのではなくて、肉体は自分を見つめるためにありました。自分を見つめるために、肉体が必要だったことに気が付けば、自ずとそれから以後の自分の思いが変わってきます。限りある時間の中で、何を優先していくか自ずと決まってきます。
もちろん、肉体を維持するために、社会の色々なことに対応していかなければなりません。今は、そういう社会になっているからです。しかし、今、自分は何のために、こうして肉体を持っているのかということが、自分の中で分かってくれば、その自分にとって必要なものは、すべて、整えられている、整うようになっていることが、感じられます。手許にあるもので、自分を見つめていけるようになっていることを、しみじみと感じて、満たされていきます。心が満たされていき、安堵感が広がっていきます。足らないもの、ないものを欲しい欲しいと求める思いが、段々と薄れていけば、逆に、すでにこんなに満たされていることを感じ、幸せ感が膨らんでいくはずです。
形ある世界に生きていると思っている間は、ないもの、足らないものばかりに思いが向きます。ないものねだりです。また、あっても、あってもここでいいということはありません。不足の思いが募っていきます。
それは、苦しみでしかありません。
自分(意識)のために、今、肉という形を持っていることがはっきりと分かってくれば、自分(肉)が自分(意識)を学ぶために必要なもの、それは経済的なものを含めて、すでにもう整えられていると分かってきます。自分(意識)を学ぶために、手元不如意などという事態は起こってきません。もちろん、それは単に、経済的なことだけではなくて、すべてにおいてそうだと感じます。
必要なものは、自分の周りに配置していきます。自分を見つめるのに必要なものは、すべて揃えていくのだと思います。なぜならば、人は、自分(意識)のために、肉という形を持つからです。意識の流れの中にある自分を振り返れば、それは納得です。なぜ、こういうふうになっていくのだろうかと自問自答すれば、答えは簡単に出てきます。自分が全部計画してきたに過ぎないことが、分かります。
形を見れば、どんなに大変な状態であっても、「越えられないものはない」ということです。それが、実感してくれば、勇気百倍です。偽物の自分ではなくて、本物の自分を信じていこう、喜びとともに勇気が湧いて出てくると思います。
「これが、私が私に目覚めるのに必要なことだった。」
そのように本当に思えたならば、その人は、きっと幸せです。自分に自分がありがとうと言える、こんな幸せな時間は、今までに一度もなかったはずです。優しい自分と出会える幸せ、喜びです。それは、心の底からふつふつと湧いて出てきます。そして、時には、心の奥底から突き上がってくる嬉しさです。自分に真摯に素直に自分と向き合える人間になりましょう。真の意味で強い人間でないと、真実を追求していくことはできないと言いました。つまり、次元移行という意識の流れにしっかりと乗って、自分をさらに見つめていくことができるのは、真の意味で強い人間です。愛が自分の中にあったと心で知っていくことが、自分を強い人間に蘇らせていくのです。

posted by ユーティーエーブック at 10:07| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月14日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第12回 11.生き様に優劣は付けられない



「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第12回目の配信です。
今回は「11.生き様に優劣は付けられない」、ページ数ではP95~P98までの部分です。


11 生き様に優劣は付けられない

性格がひねくれているとか、いじけているとか、言うこととすることが全く合っていなくて、それなのにいつも偉そうにしている人達は確かにいます。この人、一体何を考えているのかと言いたくなるような、人物評価をすれば、間違いなく落第点が付くと思われるような人もいます。逆に、素直で明るく、誰からも好人物だと合格点をもらう人もいます。
人間的に合格点が付いたからいい、落第点だからあの人は、というのを、今、少し横に置いておいて、その人の土台というところに、ポイントを置けば、どちらも、真実から遠くに離れているという共通点があります。
形の世界が本物であるとする土台に立っていては、人物評価では合格点がもらえても、真実の世界では合格点はもらえないことになります。
ところで、人物評価云々もそうですが、何を思い、どう生きていくか、言ってみれば、その人の生き様についても、優劣は付けられないと思います。その人が、真実を知らなかったならば、その生き様に優劣など付けることはできません。それは、みんな愚かだったと、それで片が付くからです。
しかし、実際にはどうでしょうか。
あの人は立派、何とかの鏡と崇めたり、反対に、人間のクズ、社会の掃き溜めと切り捨てていったり、色々な間違いを、私達は犯してきたと思うのです。
本来は、お手本となるような人もいなければ、バカにして見下す相手もまた存在しないのです。みんな、一様にして、愚かな自分を抱えているから生まれてきたのだと、本当に自分の心で感じていったならば、あの人はどう、この人はどう、そして、私はどうだなんて、言っている場合ではないことが、分ってきます。
全部、それぞれがそれぞれに定めてきた予定のコースを辿っていると感じてくれば、しっかりと見ていくのは、自分の心だけです。そして、自分の土台を見つめて、その土台を変えていこう、ただその思いだけで、生活をしていけばいいのだと分かってきます。自分の土台は自分でしか変えられないことも分かってきます。
そう思える自分が幸せだとなってくるから、当然、その生き様は変わってきます。周りの影響はあまり受けないようになってきます。そして、今ある中で、自分を見つめていくことができる喜びが、その後の生き方に反映していくと思います。
生き様に優劣は付けられないというのは、形ある世界にのみ生きようとする生き方は、その人生が成功であれ失敗であれ、優劣が付けられないほど愚かだという意味です。
本当のことが見え出したら、どのように生きていけばいいのかは、簡単に分かってくるし、それに沿った生き様は、すべてにおいて「優」です。「劣」はありません。こちらは、そういう意味で、優劣は付けられないということです。

posted by ユーティーエーブック at 09:47| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月13日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第11回 10.自分とトコトン付き合ってください


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第11回目の配信です。
今回は「10.自分とトコトン付き合ってください」、ページ数ではP89~P93までの部分です。


10 自分とトコトン付き合ってください

「私とあなたは、深い縁で結ばれている。」
そうかもしれません。あるいは、それは、単なる思い込みかもしれません。しかし、本当は、そのようなことはどうでもいいことです。深い縁であるかないかなど分からなくても、例えば、今、自分の身近にいる人達を通して、私は何を知っていけばいいのか、何に気付いていけばいいのかを考えていくことが大事なことなんです。そして、そこには、本当の世界を知り、本当の自分と出会うチャンスがあるだけです。だから、ありがたい人達なのです。唯一、自分の世界を見ることができるチャンスを作ってくれている人達なのです。それを、互いに、夫婦や親子などの形の世界での繋がりとしてしか見ることができなくて、しかも、そのような繋がりから心を離すことができないのは、大変残念なことだと思います。
肉体を持って存在している時間は、いつも、自分(偽物の自分)の世界から、自分(本物の自分)自身を自由に解き放していくことができるか、できないかの、二つに一つを選んでいく時間でした。
どんな人生にも分かれ道、つまり、岐路があります。過去は、ずっと、その分かれ道において、後者をみんな選んできました。自由になりたいと願いながら、自分(本物の自分)を小さな枠の中に押し込めてばかりでした。つまり、自分を形あるものだと思い続けてきたのです。私は自由だ、心は自由だと叫んでみても、自由の意味を履き違えてきたのでしょう。
しっかりと自分を見つめていく目を持ちましょう。真実だけをどこまでも追究していく目は大変厳しいけれど、大変優しいのです。どの人の心の中にも、その目はあります。
その目を、真っすぐにとらえて、何をするために、この世に出てきたのか、自分の中をはっきりとさせることです。
仮に今、財を築いて名を残したい、自分の生きてきた足跡を残したい、それが自分の中から出てくる思いなら、私はそれもいいと思います。その思いにトコトン付き合ってください。自分の合点がいくまで、付き合っていけばいいのです。付き合っていって、本当に自分は愚かだったと心の底から気付いていけば、そこには、厳しくて優しい目があることに気付けます。
その目が、「真実の方向へ向きなさい」と伝えてくれていることに、心から気付けます。心から気付くということは、そのメッセージを素直に受け取っていくということです。
もし、私自身に、今もその思いがあるならば、私は、きっとその思いに従って、自分の持てるエネルギーをみんなつぎ込んでいくと思います。現に、私はそうしてきました。今世も途中までそうでしたし、もちろん過去においては、疑う余地はありません。自分の世界を築きたかったと、自分の幸せのために、自分の喜びのために、そして頂点を目指し、ずっと戦いのエネルギーの虜でした。
「行き着くところまで行かないと、絶対に分からない。」
「自分の心で分からなければ、どうすることもできない。」
それが実感としてあります。
そして、その一方で、地獄の底の底の奥底の、もっと奥底から、今世ようやく浮上してきて、今、自分を蘇らせるチャンスをいただいているんだという実感があるから、この二つの教訓をしっかりと活かして、真実の方向にただひたすら邁進です。

posted by ユーティーエーブック at 09:52| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月10日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第10回 9.自分に聞いてください


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第10回目の配信です。
今回は「9.自分に聞いてください」、ページ数ではP83~P88までの部分です。


9 自分に聞いてください

人は、みんな、何かを求めて生きています。
自分を打ち込めるもの、自分を託すことができるもの、自分を賭けることができるもの、自分を必要としてくれるもの、そういうものを知りたいとか、そういうものに出会いたいとか、その願望があるのではないでしょうか。それが具体的に何かは、今一つ分からずに、ずっと模索中の人も多いと思います。
それでは、何もかも忘れて、没頭できるもの、集中できるものに出会っている人達は、幸せだと思いますか。夢を追い求めていると語っている人達は、どうでしょうか。本当にその人達の人生、キラキラと輝いているのでしょうか。
また、家族のため、会社のため、社会のため、我が国のため、世界人類のためをスローガンに、自分の人生を描いていく人達もいます。ため、ため、ためと言って力を尽くすことが、本当に立派なことなのでしょうか。
それでは、同じためと言っても、自分のために生きようとする人はどうでしょうか。
普通、自分のために生きるというのは、とかく自己中心的なふうに考えられがちです。そうではなくて、ここで言う自分のために生きるというのは、自分の中に生き続けているたくさんの自分のために今を生きるということです。私は、このことが何よりも肝心なことであり、これが抜けている人生など腑抜けの人生だと、自分の中から伝わってきます。自分の中の苦しみに目をつぶり、目を逸らしていては、幸せな人生、キラキラと輝く人生、立派な人生とは決して言えないのです。そして、それが分からないから、人はいつまでもどこまでも彷徨っていくのだとも伝わってきます。
「いい加減に目を覚ましなさい」と、世の中の流れは、益々大きなうねりの濁流となって、警告を発してくるのです。とても信じられないことが、ある日突然起こっても、本当は何の不思議もないのです。みんな肝心なことを忘れ去ってしまって、狂っている状態なんだと自らに知らしめてくるんです。
私達は、過去から、何度も何度も、辛い苦しい目に遭ってきました。しかし、なぜ辛くて苦しい目に遭ってきたのか、全く分かりませんでした。そして、今世もまた、何とか幸せになろう、なりたい、今度こそはと生まれてきました。それは、ただ単に幸せになろう、なりたいというのではないのです。あなたは、その奥に秘めた悲しいまでに切ない思いを、どれだけ心で感じているでしょうか。
実は、今、悲しいことや、苦しいこと、辛いことがあるから、悲しい、苦しい、寂しい、辛いのではなくて、そのような思いは、自分の中に抱えきれないほど、すでにあったのです。今、降って湧いてきたものではなく、すでに自分が抱え持っていたものでした。
いいでしょうか。ここがポイントです。
悲しいとか苦しい、辛い、寂しいという思いは、人間だったら、そういう場面に遭遇したら、当然に出てくる思い、感情かもしれませんが、それで終わったら、今世も過去と同じです。世間一般はそうです。「心を見る」ことをしなければ、そうです。「それが人生なのだ」「だから人生なのよ」と歌の文句ではないけれど、みんなそう思って諦めてしまうのです。世間に流れていくのです。「時が解決するよ」と自分を納得させていくのです。
諦めたらダメです。変に納得しないでください。ここが踏ん張りどころなんです。
私達は、悲しくて辛くて苦しい暗い思いとともに生まれてきたのです。すでに、そのような暗い思いは自分達の中にあったものでした。それらの思いと、どのように向き合っていけばいいのか、それが人生の最大の課題なのです。
思いの重圧に押しつぶされたり、そこから逃避したりするだけでは、そして、ただ悲しい、苦しい、寂しい、辛い、と訴えるばかりでは、その人は、自分の人生を生きていることにはなりません。そういうことでは、本当の喜びであるとか、本当の幸せとはこういうものなのかを実感する人生に巡り合わないでしょう。
苦しくてもいい、辛くてもいい、寂しくても、砂を噛むような空しさに狂ってもいい。しかし、人生を投げ出したり、狂ったりしたままではいけないのです。そこから、何を知っていくかです。そこから、どのように自分を見つめていくかです。そのために、自分に用意してきた時間が肉体を持っている時間、つまり、今のあなたの人生です。
人生を生きるとは、自分を見つめていくことです。一生懸命、自分に報いてやれるエネルギーを、自分の中で掘り出していくことが、自分を幸せに喜びに、そして、安らぎに導いていくことだと、私は思います。
「自分を自分で導いていく、暗い自分から明るい自分へ導いていくことができるパワーが、自分の中にあるのではないか。そのパワーこそが、ずっと私が切望してきたパワーではなかったか。」
私は、そう自分に問いかけてきました。そして、それを、今、私達は愛と呼んでいます。私達の中にもともとあった愛のエネルギー、愛のパワーです。それを、苦しみながらも、悩みながらも、目覚めさせていくように、蘇らせていくように、自らをいざなっていると、自分の中で知っていけば、こんな喜びはないでしょう。こんなに幸せな時はないと、自分の中の愛が語ってくれるのです。

posted by ユーティーエーブック at 09:00| 奈良 ☀| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする