2016年06月23日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第19回 18.時が来たれば


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第19回目の配信です。
今回は「18.時が来たれば」、ページ数ではP137~P139までの部分です。


18 時が来たれば

時が来たれば、予定通り、筋書き通りに反応して、事は遂行されていきます。意識の流れとはそういうものです。その流れに逆流する流れは、形の世界を本物とする流れです。そして、その流れは、いつまでも逆流はできせん。では、どうなっていくのかと言えば、意識の流れに乗ることはできないんだから、沈み込んでいくだけです。淀んでいきます。再び浮上することは、さあ、どうでしょうか。
と言って、その淀み沈み込んでしまった世界が、どこか違う世界にいくのではありません。初めからひとつの世界があっただけです。形の世界を本物とするところからは、こちらの世界が分からないだけ、ともにあることが分からないだけです。
形の世界を本物とする思いは、自らがその間違いに気付き、その思いを、意識の世界を本物とする思いに転回する必要があります。
「形を通して、自らの苦しみ、間違いを見る、感じる。そして、そこから、自分を解き放していく」、そういうことをしていくのが人生でした。
そうしていけば、生きていく意味も何もかも全く違っていた自分に、全くトンチンカンな方向で、幸せと喜びと安楽を得ようとしていた自分に、気付くはずです。
気付けば、ただ嬉しくなってくるのです。もともと喜びしかなかったからです。喜びが、尽きることなく溢れてくることを感じます。
意識の流れは、淡々と流れていきます。悠然と流れていきます。すべてをその中に受け入れて、流れていきます。流れにそぐわないものは、自然淘汰されていくのです。
形の世界を本物とする思いは、沈み込んでいき、浮上することは難しいという表現は、頭でとらえれば、理解できないことかもしれませんが、これからの時間の中で、それは必ず証明されていきます。

posted by ユーティーエーブック at 11:01| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月22日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第18回 17.私と私の約束


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第18回目の配信です。
今回は「17.私と私の約束」、ページ数ではP131~P136までの部分です。


17 私と私の約束

心の中にある闇の暗い部分は、もう一度、生まれてくることにより、動きが活発化してきますが、その成長は、もうありません。肥大することはなく、終息の時期に入っています。
それが、私の来世、二五○年後の環境だと思います。
来世は今世よりもさらにもっと最短距離で、真実を自分の中で広げていくだろうと思います。今世の予習を踏まえているからです。今世の学習があるから、自分の中に、一直線で核心に迫ることができるのだと思います。
私は、今世も、自分の予定通りに、ほぼ最短距離で学んでまいりました。
今、自分を振り返るにあたり、私の環境が、真実を追究していくのに、申し分のないものだったことを実感しています。
その中のひとつに、私が学びに集ったタイミングというものがあります。これは、私にとっては、非常に大きなポイントでした。早くもなし遅くもなし、丁度いい時期に学ばせていただいたことに感謝です。
それから、自分なりに試行錯誤しながら学んできた結果、自己確立の道を確かなものとして、今は、その自己確立の障害となるべきものは何もない環境を設定しています。
ゆっくりと、ゆったりと、二五○年後に思いを馳せながら、楽しみながら、喜びながら、我が行く末を見つめていく時間、空間に恵まれています。
これほどの幸せはないと思います。
己というものを顕示していくことは、私には過去のものになりました。いつまでもそうしていては、到底真実の世界を知っていくことなどできないことを、感じているからです。
私には、そのようなことで道草を食っている時間はないことを感じます。
ひたすら、自分の中で対話を続け、そして、より純粋な世界を自分の中で広げていくことが、私と私の約束です。
もう、自分を裏切ることはしません。大いなる優しさ、温もり、広がり、そのような自分であったことを知ったからです。
私は、流れています。絶えず、新鮮な空気を送り込んでくれる自分を感じ、本当にこの私とともに存在していく喜びを実感しています。
私が感じている世界からすれば、形の世界の様々なことが、本当に芥子粒のように感じます。だから、その中にありながら、芥子粒には左右されません。いずれ消え去るものであり、永遠のものではないものに、もう二度と自分を売ることはしません。そして、芥子粒の中だと知っているから、どんなにすごい思いを確認しても、私はびくともしないのでしょう。揺れながら、振動を吸収しながら、よかった、嬉しい、ありがとうと、芥子粒を包んであげる私が、最終的にあります。
しかし、肉では、私は駆け引きもしているようだし、損得も考えているようです。一応、そうですが、やはり、それもまたどこかで、パッと立ち消えになっていくように思います。そのように肉の私はまだまだ愚かですが、今はその愚かな私がとても愛しく思えます。
私は、一生懸命生きようと、もがいてきた愚かさを、充分に味わってまいりました。もう私は充分です。もがけばもがくほどに、欲すれば欲するほどに、底なし沼に沈んでいくことを過去の私から学ばせていただきました。
「底なし沼の恐怖や苦痛は、どれもこれも自分をそこから解き放すためにあった。」
「自分を苦しめているのは底なし沼ではなかった。」
「自ら進んで底なし沼にはまっていったことが苦しみだった、それが私の転生に他ならない。」
そういったことを、私の心の世界は、きちんと、とらえていると思います。
形の世界は、区別差別の世界です。知力、財力の違い、生まれ育ちの違い、容姿の美醜、それらがあるから、心の中の汚いドロドロした思いを、まざまざと見ることができます。そういうふうに、物事をとらえる目を養っていく術を、今世の私は会得したのだと思います。
もちろん、二五○年後に生まれてくれば、私は、区別差別の人間社会で、ある時期は苦しみます。その苦しみの種は、まだ私の中にあるからです。しかし、それが肥大化することは、もうないと私は語りました。間違った方向で物事をとらえる目は、ある瞬間に変化します。その体験を経て、私は、ただ一直線に進んでいきます。それが、意識の転回がなせる業なのだと、私自身感じています。
今世の学習の時間を自分に用意して、そして、二百五十年後に、本番を迎えるという計画。
この計画は、決して狂うことがあってはならないのです。それは意識の流れの計画だと私自身は感じています。だから、肉から意識への転回が、何よりも、何よりも重要視されるべき作業でした。私は、私と交わした約束をきちんと遂行させるべく存在しています。意識の流れに思いを馳せながら、愛へ帰る道を進んでいこう、私と私の固い、固い約束でした。


posted by ユーティーエーブック at 17:22| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月21日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第17回 16.苦しんできた自分のために、どれだけ時間を尽くしてきたか


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第17回目の配信です。
今回は「16.苦しんできた自分のために、どれだけ時間を尽くしてきたか」、ページ数ではP125~P130までの部分です。


16 苦しんできた自分のために、どれだけ力を尽くしてきたか

「苦しんできた自分のために、どれだけ力を尽くしてきたか」と尋ねられれば、あなたはどんな返答ができますか。
そして、「あなたが力を尽くし、エネルギーを注いできたのは、全部偽物の自分のためではないのですか」と言われたならば、どうでしょうか。様々な思いが伝わってきます。
「苦しんできた自分とは、何か。偽物の自分だと言われても、どこがどう偽物なのだ、私には分からない。」とか、あるいはこうです。
「あなたの言うことは私には理解できない。それは、私だけではないはずだ。私の周りの誰に聞いても、こんなこと、理解できるはずがない。」等々。
また、事件、事故などをテレビなどで見聞きしていると、同様に、実に様々な思いが伝わってきます。
「確かに、金だけで幸せになれるはずがないが、しかし、金がなければ、一日だって生きてはいけないではないか。」
「病弱な身体で、一体何ができるのか。」
「知能に障害があったり、常軌を逸した精神状態だったりでは、まともな社会生活を送れるはずがない。お気の毒だが、それも運命と諦めてもらうより仕方がない。私は、お陰さまで、五体満足の身体に恵まれた。とにかく、一生懸命、自分が正しいと思っていることをやるまでだ。」
「私の人生だ。だから、勝手気ままに生きてやる。誰にも何も言わせはしない。」
例えば、このような言い分、思い方には、極端な部分があるかもしれませんが、しかし、口にこそ出して言わないだけで、ある程度頷けるという部分はあると思います。ただ、問題なのは、このような様々な暗い思いが心から出ていても、殆どの人達はそれについて無頓着だということです。だから、自分が苦しんでいるということが分からないのです。
ところで、「9自分に聞いてください」というところで、「自分のために生きる」ということについて、少し触れさせていただきました。ここで、もう一度、「自分のために生きる」さらに、「自分のために自分の持てるものを使っていく」ということについて、語ってみたいと思います。
実は、私の中には、そのような思いが、学びに集う以前よりありました。
「自分が自分に与えた人生は、自分が納得するように生きていきたい」という思いを、何かあるたびに感じてきました。そして、そう思うのはなぜなのか、それはただ単に自分のエゴなのかと考えてきましたが、今は、私の中の切なる思いだったと確信しています。
それは、私の中で、「意識の転回」が起こってきたからです。
土台が変わらなければ、いくら自分のために生きていきたいと思ってみても、それはエゴの中のことに過ぎないでしょう。ただ、手前味噌かもしれませんが、自分のために生きていきたいという思いは、私の中で、ほぼ純粋だったと思っています。その純粋な思いが、今の私を導いてきたと、私は解釈しています。
私は、絶えず、いつも何かを探していました。自分に納得する何かを探していました。この世の常識にとらわれることなく、私が私にしてやりたいことを探し続けてきたから、よかったと振り返っています。
そうかと言って、私は何も特異な生活をしてきたのではありません。ごく普通に日々を過ごしてきました。しかし、今思えば、私の幸せや喜びの基準は、どこか、社会の常識では説明できないところにあるということだったように思います。これまでに、社会の中で、家族の中で、それらを追求していく限界を、私は感じてきたのです。
そこで感じる幸せや喜びには限界があると思ってきました。行き止まりを感じてきました。どうしても、何かが欠けていると感じてしまうのです。しかし、では、どうすればよかったのか、何が欠けていて、では何があればいいのか、ということは、なかなか分かりませんでした。
言うまでもなく、人と人との繋がりの中で、生活は成り立っています。人は、ひとりでは生きていけないということでしょう。しかし、それは、私からすれば、あくまでも表向きの考え方に過ぎないのです。私の本音は、人はひとりだと思っています。そして、それは決して孤独な世界ではないことも段々に分かってきました。人はひとりという本当の意味、そして、喜びが分かってきたのです。
本当の自分の世界を追求していきたい、していこうという思いが、私の中に根強く根深くありました。その思いこそが、自分に納得する生き方であり、自分の中に欠けているものを埋めていくものであり、私が私にしてやりたいことだったんです。学びに集わせていただき、ようやく、その思いが表面に顔を出し、その姿を克明に現してきて、愚かな肉にも感じられるようになった今という時なんです。
「形の世界に、私の求めているものはない」、私の中で、この思いが確立していると言っても、言い過ぎではないと思います。

posted by ユーティーエーブック at 09:17| 奈良 ☔| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月20日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第16回 15.あなたが欲しいものは何ですか


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第16回目の配信です。
今回は「15.あなたが欲しいものは何ですか」、ページ数ではP121~P124までの部分です。


15 あなたが欲しいものは何ですか

私自身が求めてきた幸せも喜びも、みんな間違っていたことは、今は、はっきりしています。やはり、そうでした。みんな間違ってきたというところからスタートすれば、何もかも自分の中で符合してくるのです。しかし、前にも述べたように、形ある世界が本物だとする土台の上に立っていれば、そのスタートの位置自体が分かりません。自分が求めてきたものはみんな、間違っていたことが、なかなか分からないというか、認めることはできないのです。認めることができなければ、学びのスタートは切れません。
しかし、大概の人は、自分自身は、とっくにスタートをしたと思っています。もう今は、随分遠いところまでやってきただろう、これだけ一生懸命学んできたのだから、どれだけ成長したのかと振り返ったとき、まだ全くスタートしていなかったことを知って愕然とする時があるかもしれません。そして、その時はもう遅かりし、人生の終焉の時かもしれません。
一生懸命やってきたはずだったのに、実際は、足踏み状態、または、前進するどころか後退している状態である、ということを心で知れば、「私は、自分を足踏みさせるもの、後退させるものばかりを握りながら学んできた。ああ、このまま死んでいくのは、あまりにも悲しく空しい」と感じずにはいられないでしょう。しかし、思いようによっては、そう確認できれば、まだいいほうかもしれません。人生も終わりに近づいたといっても、現にまだ、肉を持つ時間があるんです。それは、自分と向き合っていける時間がまだ残されているということだから、一念発起してやっていき、自分の本来向くべき方向に、数ミリでも心の針を向けることができたならば、万々歳の人生ではないでしょうか。
どんなに華やかで煌びやかな輝きを発した人生であっても、所詮、その輝きは、すぐにくすんでしまうことを、心で知ることなしに逝ってしまうことほど、悲しくて空しいものはないと思います。
ところで、あなたが欲しいもの、本当に望んできたものは何ですかと、自分に真っ直ぐに問いかけてください。さらに、あなたが欲してきたものを、今、あなた自身、その手の中に収めることができていますかと、問いかけてみてください。
私が、欲しかったものは、「この世のどこかに必ずある本当のこととは、いったい何なのか」ということに対する回答でした。そして、その回答に出会ったというのが私の答えです。それは、もちろん、完結する世界のことではないのですが、私は、私が探し求めてきたものに出会いました。本当のことに出会いました。
学びの中において、田池留吉の世界、アルバートの世界、母なる宇宙と、呼称は色々ですが、たった一つの真実の世界があった、これだけが唯一の現実であり、本当のことでした。
たまらない空しさと寂しさの中に落ちてきた私だけど、私は、今、意識の流れがあること、真実の世界に存在している自分であることが確信できたから、やはり、私は幸せ者だということになると思います。

posted by ユーティーエーブック at 10:05| 奈良 🌁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月17日

「愛、自分の中の自分―意識の転回 ver.3―」第15回 14.握っているものを離すことが人生でした


「愛、自分の中の自分」(塩川香世 著)第15回目の配信です。
今回は「14.握っているものを離すことが人生でした」、ページ数ではP115~P119までの部分です。


14 握っているものを離すことが人生でした

意識の転回が進んでくると、それが自分の中で始まらない限り、どんなに時間をかけ、労力をかけ、頑張ってみても、真実に辿り着くことができないことが、はっきりと分かってきます。
そして、意識の転回が進んでくると、時間をかけ、積み重ねてきた形を本物とする世界は、一瞬にして消え去っていく陽炎に過ぎなかったことも、はっきりと心に感じます。
それらを心ではっきりと知るから、自分の中から、一つ、一つ、握っているものを離すことをやっていこうとするのでしょう。
「幸せや喜びは、しっかりと握っていなければ、私の中から消え去っていく。」
「私を幸せに喜びに導いてくれるから、絶対この手を離すものか。」
「離させようとするものを、徹底的に排除していく。」
「この手の中に確実に入れるものが多ければ多いほど、幸せ感も厚くなるし、喜びも大きくなる。」
大真面目にそう思っていました。大きな思い違いをやってきました。もちろん、そこで、手にしようとするものは、楽しいこと、綺麗なこと、嬉しいこと、輝いているものばかりです。汚くて、暗くて、無様なものは、なるべく自分から遠ざけようとしてきましたから、その心の状態は、本当にお粗末なものだったと、今なら分かります。そのような心の状態で、人生を頑張って生きても、幸せになるはずがなかったのです。しかし、それはなかなか分かりませんでした。
今は、心がつかんでいるもの、握っているもの、それが少なければ少ないほど、そして、緩ければ緩いほど、本物が見えてくることを知りました。
本物が見えてきたならば、握ってきた自分、つかんできた自分が愚かだった、それだけでした。
そして、自分が愚かだったと気付けば、本物は、握ろう、つかもうとしなくても、すでに、そこに最初からあったことに気付きます。
偽物を離せば、本物が自然に見えてくるのです。そして、偽物(形の世界)も、きちんと整っているのです。整えようとしなくても、自分にとって必要ならば、整ってきます。
また、本当の自分の世界を感じていけば、きちんと整えられた形の世界でさえも、自分にとって必要がない時がくれば、そこから心を離していくことができるのだと思います。
形が崩れたから、仕方なく心を残して離すのではなくて、形が整えられていても、すっと心は離すことができる。それは、本物を感じてこそできるのだと思います。形は形にしか過ぎないことを、はっきりと心で知るからでしょう。
本来、正しい軌道にある人は、日日の生活をしながら、つかんだ手を緩める、離すことを学んでいきます。つかまえることが苦しい、間違っていることを学んでいきます。つかんだ手を緩める、そして離すことが、自分を本来の自分にいざなっていくんだと確信していきます。
そして、自分の世界と向き合うことができるということが、どれだけの幸せであり、喜びである今なのかを感じていけば、ずっと長く抱えてきたお粗末な心の状態も、また、よかったなあとなってくるでしょう。
いいえ、お粗末な自分だったからこそ、本当の幸せや喜びを感じてくれば、すごい世界に自分はいることを、しみじみ知っていくと思います。だから、お粗末な自分に、ありがとうしかないことが、実感できるのです。お粗末な自分を決して疎ましく思いません。愚かな自分だったからこそ、本当の幸せ、本当の喜びの世界を知ることができたとなるからです。

posted by ユーティーエーブック at 09:08| 奈良 ☁| Comment(0) | 「愛、自分の中の自分」(全24回) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする